この武者可然者のにてやありけん、「あれ討たすな」とて、五十余騎の兵迹に付いて追ひけるを、孫三郎尻目にはつたと睨んで、「敵も敵によるぞ。一騎なればとて我に近付いて過ちすな。欲しがらばすはこれ取らせん。請け取れ」と云つて、左の手に引つ提げたる鎧武者を、右の手に取り渡して、ゑいと抛げたりければ、跡なる馬武者六騎が上を投げ越して、深田の泥の中へ見へぬほどこそ打ち込うだれ。これを見て、五十余騎の者ども、同時に馬を引つ返し、逸足を出だしてぞ逃げたりける。赤松入道は、殊更今日の軍に、憑み切つたる一族の兵どもも、所々にて八百余騎被打ければ、気疲れ力落ち果てて、八幡・山崎へまた引つ返しけり。
この武者はしかる者の子息であったか、「あれ討たすな」と、五十余騎の兵が後に付いて追うところを、孫三郎(妻鹿長宗)は尻目にはたと睨んで、「敵も敵によるものぞ。一騎だからといってわしに近付いて命を落とすな。欲しいのならばこれを取らすぞ。受け取れ」と言って、左手に引っ提げた鎧武者を、右手に取り直して、えいと投げると、後ろの馬武者六騎の上を越えて、深田の泥の中へ見えぬほど埋まりました。これを見て、五十余騎の者どもは、同時に馬を引っ返し、逸足で逃げました。赤松入道(赤松則村)は、今日の軍で、頼みきった一族の兵どもが、所々で八百余騎討たれたので、力をなくして、八幡(現京都府八幡市)・山崎(現大阪府三島郡島本町)へまた引き返しました。
(続く)