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「太平記」主上自令修金輪法給ふ事付千種殿京合戦の事(その6)

夕陽せきやうに及んで軍散じければ、千種殿は本陣峯のだうかへつて、御方の手負ひ打ち死にを被註に、七千人に余れり。その内に、宗と憑まれたる大田おほた金持かなぢの一族以下いげ数百人すひやくにん被打をはんす。よつて一方の侍大将とも可成者とや被思けん、小嶋備後三郎高徳たかのりを呼び寄せて、「敗軍の士力疲れて再び難戦。都近き陣は悪しかりぬと思ゆれば、少しさかひを阻てて陣を取り、重ねて近国の勢を集めて、また京都を責めばやと思ふは、いかに計らふぞ」とのたまへば、小嶋三郎不聞敢、「軍の勝負は時の運による事にて候へば、負くるも必ずしも不恥、ただ引くまじきところを引かせ、可懸ところを不懸を、大将の不覚とはまうすなり。如何なれば赤松入道は、わづかに千余騎の勢を以つて、三箇度まで京都へ責め入り、叶はねば引き退いて、つひ八幡やはた・山崎の陣をば去らで候ふぞ。御勢たとひ過半くわはん被打て候ふとも、残るところの兵なほ六波羅の勢よりは多かるべし。この御陣後ろは深山みやまにて前は大河なり。敵もし寄せ来たらば、好む所の取手とりでなるべし。あなかしこ、この御陣を引かんと思し召す事不可然候ふ。ただし御方の疲れたるつひえに乗つて、敵夜討ちに寄する事もや候はんずらんと存じ候へば、高徳たかのりは七条の橋爪はしづめに陣を取つて相待あひまち候ふべし。御心安からんずるつはものどもを、四五百騎が程、梅津うめつ法輪ほふりんの渡しへ差し向けて、警固をさせられ候へ」とまうし置いて、すなはち小嶋三郎高徳は、三百余騎にて、七条の橋より西にぞ陣を堅めたる。




夕陽([夕刻])に及んで軍が終わり、千種殿(千種忠顕ただあき)は本陣峯堂に帰って、味方の手負い討ち死にを記すと、七千人に余りました。その中には、とても頼りにしていた大田・金持の一族以下、数百人も含まれていました。よって一方の侍大将となるべき者と思ったか、小嶋備後三郎高徳(児島高徳)を呼び寄せて、「敗軍の武士は疲れて再び戦うことは困難だ。都に近い陣はよくないと思える、少し境を隔てて陣を取り、重ねて近国の勢を集めて、また京都を攻めようと思うが、どうであろう」と申せば、小嶋三郎(児島高徳)は聞きも敢えず、「軍の勝負は時の運によるものですれば、負けることも恥ではありません、ただ引いてはならないところを引かせ、駆けるべきところを駆けないことこそ、大将の不覚と申します。なぜ赤松入道(赤松則村のりむら)は、わずかに千余騎の勢で、三箇度まで京都へ攻め入り、叶わねば引き退いて、八幡(現京都府八幡市)・山崎(現大阪府三島郡島本町)の陣を去らないかお分かりですか。勢のたとえ過半が討たれても、残る兵はなお六波羅の勢よりは多いのです。この陣は後ろは深山で前は大河です。敵がもし攻めて来たならば、取って置きの砦となりましょう。どう考えても、この陣を引くべきではありません。ただし味方が疲れた隙を突いて、敵が夜討ちに寄せることもあろうと思えば、この高徳が七条の橋詰めに陣を取って待ち懸けましょう。気が置けない兵どもを、四五百騎ばかり、梅津(現京都市右京区)・法輪の渡し(現京都市西京区)へ差し向けて、警固させますように」と申し置いて、たちまち小嶋三郎高徳(児島高徳)は、三百余騎で、七条の橋の西に陣を構えました。


続く


by santalab | 2016-06-08 07:40 | 太平記

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