故三位殿御局と申ししは、今天子の母后にておはしませば、院号蒙らせ給ひて、新待賢門院とぞ申しける。北畠入道源の大納言は、准后の宣旨を蒙りて華著けたる大童子を召し具し、輦に駕して宮中を出入すべき粧ひ、天下耳目を驚かせり。この人は故奥州の国司顕家卿の父、今皇后の厳君にてをはすれば、武功と云ひ華族と云ひ、申すに及ばぬ所なれども、竹園摂家の外に未だ准后の宣旨を被下たる例なし。平相国清盛入道出家の後、准后の宣旨を蒙りたりしは、皇后の父たるのみに非ず、安徳天皇の外祖たり。また忠盛が子とは名付けながら、正しく白河の院の御子なりしかば、華族も栄達も今の例には引き難し。日野の護持院僧正頼意は、東寺の長者醍醐の座主に被補て、仁和寺諸院家を兼ねたり。大塔僧正忠雲は、梨本大塔の両門跡を兼ねて、鎌倉の大御堂、天王寺の別当職に被補。この外山中伺候の人々、名家は清華を超え、庶子は嫡家を越えて、官職雅意に任せたり。もし如今にて天下定まらば、歎く人は多くして悦ぶ者は可少。元弘一統の政道如此にて乱れしを、取つて誡めとせざりける心の程こそ愚かなれ。
故三位殿局(阿野廉子)と申されたのは、今天子(第九十七代後村上天皇)の母后でしたので、院号を下されて、新待賢門院と申されました(ちなみに阿野廉子はこの時には在命)。北畠入道源大納言(北畠親房)は、准后の宣旨を下されて花を付けた大童子([寺で召し使う少年のうち、出自などの理由で最上級とされた者])を召し具し、手輦に乗って宮中を出入する姿は、天下の耳目を驚かせました。この人は故奥州国司顕家卿(北畠顕家)の父、今の皇后(後村上天皇の女御)の厳君([父君])でしたので、武功と言い華族([清華家=公卿の家格の一。摂関家に次ぎ大臣家の上に位する家柄。の別称])と言い、申すまでもありませんでしたが、竹園([皇族])摂家のほかにいまだ准后の宣旨を下された例はありませんでした。平相国清盛入道(平清盛)が出家の後に、准后の宣旨を下されたのは、皇后(第八十代高倉天皇の中宮、平徳子)の父であるばかりでなく、安徳天皇(第八十一代天皇)の外祖([母方の祖父])でした。また忠盛(平忠盛)の子とは名付けながら、まさしくは白河院(第七十七代天皇)の子でしたので(白河院の寵妃、祇園女御は妹の子である平清盛を猶子にしたらしい)、華族も栄達も今の例には当てはまりませんでした。日野護持院僧正頼意は、東寺(現京都市南区にある教王護国寺)の長者醍醐(現京都市伏見区にある醍醐寺)の座主に補されて、仁和寺(現京都市右京区にある門跡寺院)諸院家([門跡寺院の別院で、本寺を補佐し、諸種の法務を行う寺院])を兼任しました。大塔僧正忠雲は、梨本(現京都市左京区にある三千院)大塔(現京都市左京区にあった法勝寺)の両門跡を兼ねて、鎌倉大御堂(現神奈川県鎌倉市にあった勝長寿院)、天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)の別当職に補されました。このほか山中(賀名生殿。現奈良県五條市)に伺候の人々は、名家は清華を超え、庶子は嫡家を越えて、官職は思いのままでした。もしこのままが天下が定まれば、悲しむ人は多くよころぶ者は少なかったことでしょう。元弘一統の政道もこうして乱れましたが、戒めとしなかった心のほどこそ愚かなことでした。
(続く)