彼ら二人、二本の率都婆を軽々と打ちかたげ、堀の端に突き立てて、先づ自歎をこそしたりけれ。「異国には烏獲・樊噲、我が朝には和泉の小次郎・浅井那三郎、これ皆世に並びなき大力と聞こゆれども、我らが力に幾程か勝るべき。言ふところ傍若無人なりと思はん人は、寄せ合つて力根のほどを御覧ぜよ」と言ふままに、二本の率都婆を同じ様に、向かひの岸へぞ倒し懸けたりける。率都婆の面平らかにして、二本相並べたればあたか四条・五条の橋の如し。ここに畑六郎左衛門・亘理新左衛門二人橋の詰めにありけるが、「御辺たちは橋渡しの判官になり給へ。我らは合戦をせん」と戯れて、二人とも橋の上をさらさらと走り渡り、堀の上なる逆茂木ども取つて引き退け、各々木戸の脇にぞ着いたりける。これを防ぎける兵ども、三方の土矢間より槍・長刀を差し出だして散々に突きけるを、亘理新左衛門、十六まで奪うてぞ捨てたりける。畑六郎左衛門これを見て、「退けや亘理殿、その屏引き破つて心安く人々に合戦せさせん」と言ふままに、走り懸かり、右の足を上げて、木戸の関の木の辺を、二踏み三踏みぞ踏んだりける。あまりに強く踏まれて、二筋渡せる八九寸の貫の木、中より折れて、木戸の扉も屏柱も、同じくどうど倒れければ、防がんとする兵五百余人、四方に散つてさつと引く。
彼ら二人(栗生顕友・篠塚重広)は、二本の率都婆を軽々と持ち上げると、堀の端に突き立てて、まず自歎([自画自賛])しました。「異国(中国)には烏獲(秦の武王に仕えた。大力の持ち主だったそうな)・樊噲(中国の秦末から前漢初期にかけての武将)、我が朝には和泉小次郎(泉親衡。鎌倉初期の武将。鎌倉幕府御家人)・浅井那三郎(朝比奈義秀。鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人)、これらは皆世に並びない大力だったと知られていますが、我らの力にどれほど勝っていたことでしょう。言ふところの傍若無人([人前を憚からず、勝手に振る舞う様])に戦おうと思う者は、寄せ合って力のほどを確かめよ」と言うままに、二本の率都婆を並べて、向こう岸に倒し懸けました。率都婆の面は平らで、二本並べるとまるで四条・五条の橋のようでした。畑六郎左衛門(畑時能)・亘理新左衛門(渡里忠景)二人は橋詰めにいましたが、「お主たちは橋渡しの判官([衛府の尉で、検非違使を兼ねるもの])になられよ。我らは合戦をするぞ」と冗談交じりに言うと、二人とも橋の上をさらさらと走り渡り、堀の上の逆茂木を取って引き退け、各々木戸の脇に着きました。防いでいた兵どもは、三方の土矢間([矢狭間]=[城壁や櫓などに開けた、矢を射るための穴])より槍・長刀を差し出して散々に突きましたが、亘理新左衛門(渡里忠景)は、十六まで奪い取って捨てました。畑六郎左衛門(畑時能)はこれを見て、「退けや亘理殿、その屏を引き破って心安く人々に合戦させるぞ」と言うままに、走り懸かり、右足を上げて、木戸の貫の木([閂]=[門の扉が開かないようにする横木])のあたりを、二踏み三踏み蹴りました。あまりに強く蹴られて、二筋渡した八九寸(約24〜27cm)の貫の木は、途中より折れて、木戸の扉も屏柱も、同じくどっと倒れたので、防いでいた兵五百余人は、四方に散ってさっと引き退きました。
(続く)