将軍湊河に着き給ひければ、気を失ひつる軍勢ども、また色を直して、方々より馳せ参りける間、なきほどにその勢二十万騎になりにけり。この勢にてやがて攻め上り給はば、また官軍京には堪るまじかりしを、湊河の宿に、その事となく三日まで逗留ありける間、宇都宮五百余騎道より引つ返して、官軍に属し、八幡に置かれたる武田式部の大輔も、堪へ兼ねて降人になりぬ。その外ここかしこに隠れ居たりし兵ども、義貞に属しける間、官軍いよいよ大勢になつて、竜虎の勢ひを振るへり。二月五日顕家の卿・義貞朝臣、十万余騎にて都を立ちて、その日摂津の国の芥河にぞ着かれける。将軍この由を聞き給ひて、「さらば行き向かつて合戦を致せ」とて、将軍の舎弟左馬の頭に、十六万騎を差し添へて、京都へぞ上られける。
将軍(足利尊氏)が湊川(現兵庫県神戸市中央区)に着けば、気力を失っていた軍勢どもは、また色を直して、方々より馳せ参り、またたく間にその勢は二十万騎になりました。この勢でたちまち攻め上れば、官軍は京に留まることはできませんでしたが、湊川の宿に、さして訳もなく三日間逗留したので、宇都宮(宇都宮公綱)は五百余騎で道より引き返し、官軍に属し、八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)に置かれていた武田式部大輔も、堪え兼ねて降人になりました。そのほかあちらこちらに隠れていた兵どもが、義貞(新田義貞)に付いたので、官軍はますます大勢になって、まるで竜虎の勢いとなりました。二月五日に顕家卿(北畠顕家)・義貞朝臣は、十万余騎にて都を立て、その日摂津国の芥川(現大阪府高槻市)に着きました。将軍(足利尊氏)はこれを聞いて、「ならば行き向かって合戦せよ」と申して、将軍の舎弟左馬頭(足利直義)に、十六万騎を差し添えて、京都に上せました。
(続く)