娘もいと物侘しう哀れなる方に思へけれども、吹きも定めぬ浦風に靡き果つべき烟の末も、終には憂き名に立ちぬべしと、心強き気色をのみ関守になして、早や年の三年を過ぎにけり。父は賎しうして母なん藤原なりければ、やんごとなき御子たちの御思えは等閑ならぬを聞きて、などや今まで御答へをも申さでは止みにけるぞと、いと痛ふ打ち侘ぶれば、御消息伝へたる二人の仲立ち次でよしと思ひて、「たらちめの諌めも理にこそ侍るめれ。早く一方に御返り言を」と、託ち顔なりければ、娘言ふばかりなく打ち侘びて、「いさや我とはいかでか分く方侍るべき。ただこの度の御文に、御歌のいと憐れに思へ侍らん方へこそ参らめ」と言ひて、少し打ち笑ひぬる気色を、二人の仲立ち嬉しと聞きて、急ぎ宮々の御方へ参りてかくと申せば、やがて伏見の宮の御方より、取る手も薫るばかりに焦がれたる紅葉襲の薄様に、いつよりも言の葉過ぎて、憐れなるほどなり。思ひ兼ね言はんとすれば掻き暮れて涙の外は言の葉もなしと遊ばされたり。
娘もたいそう物侘しく哀れに思いましたが、吹きも定めぬ浦風に靡く煙の末も、終には憂き名が立つことでしょうと、心強く関守にして、三年を過ぎました。父(基久)は身分は低く母は藤原氏でした、高貴の皇子たちの思いがなおざりなものでないと聞いて、どうして今まで返事もしなかったのかと、たいそう悔やんで、消息([文])を贈られた二人(伏見宮=第九十三代後伏見天皇。と帥宮=第九十六代後醍醐天皇)りの仲立ちをしようと思い、「たらちめ=母。の諌めも道理ではあるが。早くどちらかに返事を」と、託ち顔([恨めしそうな顔つき])でしたので、娘は何も言えず悲しんで、「どうしてわたしに決められましょう。ただこの度の文の、歌に心惹かれるお方に参りましょう」と答えました、わずかに微笑む姿を見て、二人の仲立ちをよろこんでいると思い、急ぎ宮々の方へ参ってその由を申し上げると、やがて伏見宮より、取る手も薫るばかりに焦がれた紅葉襲([襲の色目の名。表は紅、裏は青。表は赤、裏は濃い赤とも])の薄様([薄く漉かれた上質の紙])には、いつにも増して言葉数多く、憐れなほどでした。思いは募り言おうとすれば掻き暮れて涙のほか言葉もないと書いてありました。
(続く)