父痛く止めて、「事の外なる態をも計らひ給ひけるものかな。伏見の宮は春宮に立たせ給ふべき由御沙汰あれば、その御方へ参りてこそ、深山隠れの老木までも、花咲く春にも逢ふべきに、行く末とても頼みなき帥の宮に参り仕へん事は、誰が為とても待るべき方やある」と言ひ留めければ、母上げにやと思ひ返す心になりにけり。滝口はかくとも知らで御簾の前に寄り居て、月の傾きぬるほどを申せば、母上出で合ひて、「只今にはかに心地の例ならぬ事侍れば、後の夕べをこそ」と申して、御車を返してげり。帥の宮かかる事侍るとは、露も思し寄らず、さのみやと今日の頼みに昨日の憂さを替へて、度々御使ひありけるに、「思ひの外なる事候ひて、伏見の宮の御方へ参りぬ」と申しければ、親し避けずば、
東路の 佐野の船橋 さのみやは 堪へては人の 恋渡るべき
と、思ひ沈ませ給ふにも、御
憤りの
末深かりければ、帥の宮御
治世の初め、
基久さしたる咎はなかりしかども、勅勘を
被り神職を解かれて、
貞久に補されし。
父(基久)は強く止めて、「思いもしなかったことをするものよ。伏見宮(後の第九十三代後伏見天皇)は春宮に立たれると沙汰あれば、その御方へ参ってこそ、深山隠れの老木にも、花咲く春に逢うべくを、行く末とても頼みなき帥宮(後の第九十六代後醍醐天皇)に参って仕えて、いったい何になるというのか」と言って止めたので、母上ももっともなことと思い返しました。滝口([滝口の武士=宮中の警護にあたった武士])はそうとも知らず御簾の前に寄って、月が傾くほどになると申せば、母上が出て、「急に具合が悪くなりましたので、明日の夕べに」と申して、車を帰しました。帥宮はそのようなこととは、露も思い寄らず、ならばと今日の頼みに昨日の憂さを替えて、再び使いを遣ると、「思いもしませんでしたが、伏見宮の御方へ参ったということです」と申したので、悲しみに堪え兼ねて、
東路の佐野の船橋([船橋]=[船をたくさん浮かべて橋のかわりにしたもの]。佐野の船橋というのは、昔、烏川という川ををはさんで二つの村があり、それぞれに朝日の長者と夕日の長者が住んでいた。村人たちは二つの村の間に船橋を作って行きを来していた。朝日の長者にはなみという娘が、夕日の長者には小治朗という息子がいたが、二人はいつしか船橋を渡って会うようになった。しかしある夜船橋の真ん中の橋板が外されてしまった。何も知らない二人はそれぞれの岸から船橋を渡ろうとして、ともに川に落ちて死んでしまったという)を、やっとのことで、渡るところであったのに。
と、思い沈まれて、なお憤りは末深く、帥宮の治世の初め、基久にさして咎はありませんでしたが、勅勘を被り神職を解かれて、貞久を(賀茂社の神主職に)就けたのでした。
(続く)