この頼遠は、当代ことさら大敵を靡け、忠節を致せしかば、その賞翫も人に勝れ、その恩禄も異他。さるを今浩かる振る舞ひに依つて、重ねて吹挙をも不被用、忽ちにその身を失ひぬる事、天地日月未だ変異はなかりけりとて、皆人恐怖して、直義の政道をぞ感じける。この頃の習俗、華夷変じて戎国の民と成りぬれば、人皆院・国王と云ふ事をも不知けるにや。「土岐頼遠こそ御幸に参り会ひて、狼籍したりとて、被切進らせたれ」と申しければ、道を過ぐる田舎人どもこれを聞きて、「そもそも院にだに馬より下りんには、将軍に参り会ひては土を可這か」とぞ欺きける。さればをかしき事ども浅ましき中にも多かりけり。
この頼遠(土岐頼遠)は、当代他の者にまして大敵を靡け、忠節を致したので、将軍(足利尊氏)の賞翫([尊重すること])も人に勝れ、恩禄も格別でした。しかしこの振る舞いによって、重ねての吹挙([上申行為])もなく、たちまちにその身を失いました、天地日月はいまだ変異はないと、皆人は恐れ怖じて、直義(足利直義。足利尊氏の弟)の政道に感心しました。この頃習俗(巷)は、華夷(中華=都。は異民族に優越すると考える思想)は変じて戎国([未開の国])の民となり、人は皆院・国王というものを忘れてしまったのでしょうか。「土岐頼遠は(北朝初代光厳院の)御幸に参り会い、狼藉を働いたために、斬られました」と申せば、道行く田舎人どもはこれを聞いて、「院に遭遇した時馬から下りなくてはならぬならば、将軍(足利尊氏)と会ったならば土を這わなければならないのではないか」と言って悲しみました。このようにおかしな事嘆かわしい事が多くありました。
(続く)