同じき十七日の夜、将軍執事の勢二万余騎御影の浜に押し寄せ、追ふ手搦め手二手に分けらる。「軍は追ふ手より始まつて戦ひ半ばならん時、搦め手の浜の南より押し寄せて、敵を中に取り篭めよ」と被下知ける。薬師寺次郎左衛門公義は、今度の戦如いかさま大勢を憑みて御方為損じぬと思ひければ、いよいよ我が大事と気を励ましけるにや、自余の勢に紛れじと、絹三幅を長さ五尺に縫ひ合はせて、両方に赤き手を著けたる旌をぞ差たりける。一族の手勢二百余騎雀の松原の木陰に控へて、追ふ手の軍今や始まると待つ処に、兼ねての相図なれば、河津左衛門氏明・高橋中務英光、大旌一揆の六千余騎、畠山が陣へ押し寄せて鬨を作る。畠山が兵静まり返つて、態と鬨の声をも不合、ここの薮の陰、かしこの木陰に立ち隠れて、差し攻め引き攻め散々に射けるに、面に立つ寄せ手数百人、馬より真つ倒に射落されければ、後陣は引き足に成つて不進得。
同じ(正平六年(1351)二月)十七日の夜、将軍(足利尊氏)執事(高師直)の勢二万余騎は御影浜(現兵庫県神戸市東灘区)に押し寄せ、兵を大手搦め手の二手に分けました。「軍は大手([敵を表門または正面から攻める軍隊])より始めて戦い半ばになろう時、搦め手([城の裏門。敵の背後を攻める軍勢])が浜の南より押し寄せて、敵を中に取り籠めよ」と命じました。薬師寺次郎左衛門公義(薬師寺公義)は、今度の戦もしや大勢に油断して味方が負けるのではと思って、ますます我が大事と気を奮い立たせたか、自余の勢に紛れまいと、絹三幅を長さ五尺に縫い合わせて、両方に赤い手を付けた旗を差していました。一族の手勢二百余騎は雀の松原(現兵庫県神戸市東灘区)の木陰に控えて、大手の軍が今にも始まるかと待つところに、あらかじめ示し合わせていたことでしたので、河津左衛門氏明(河津氏明)・高橋中務英光(高橋英光)、大旗一揆の六千余騎が、畠山(畠山国清)の陣へ押し寄せて鬨を作りました。畠山の兵は静まり返って、わざと鬨の声をも合わせず、ここの薮の陰、かしこの木陰に立ち隠れて、差し詰め引き詰め散々に矢を射たので、面に立つ寄せ手数百人は、馬より真っ逆様に射落とされて、後陣は引き足になって進み得ませんでした。
(続く)