これより播磨までは、道のほど異なる事あらじと思ふ処に、美作の国の住人、芳賀・角田の者ども相集つて七百余騎、杉坂の道を切り塞いで、越後の守を打ち留めんとす。只今備中の軍に打ち勝つて、勢ひ天地を凌ぐ河津・高橋が両一揆、一矢をも射させず、抜かれにけり。両国の軍に事故なく打ち勝つて、越後の守師泰・武蔵五郎師夏もろなつ、喜悦の眉を開き、観応二年二月に、将軍の陣を取つてをわしける書写坂本へ馳せ参る。
これより播磨までは、道中何事かあろうかと思うところに、美作国の住人、芳賀・角田の者どもが集まり七百余騎が、杉坂(現岡山県美作市と兵庫県佐用郡佐用町の境にある峠)の道を切り塞いで、越後守(高師泰)を討ち留めようとしました。けれども備中の軍に打ち勝って、勢い天地を凌ぐ河津・高橋両一揆は、一矢を射させず、通り過ぎました。両国の軍に何事もなく打ち勝って、越後守師泰・武蔵五郎師夏(高師夏。高師直の子)は、喜悦の眉を開き、観応二年(1351)二月に、将軍(足利尊氏)が陣を取っていた書写坂本(現兵庫県姫路市)に馳せ参りました。
(続く)