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「太平記」大元軍事(その13)

この事すみやかに楊子江の陣へ聞こへしかば、伯顔将軍・賈丞相かしようじやう呂文煥りよぶんくわんら、かうべを延べて無罪由を陳じ申さん為に、大元の戦を打ち捨てて都へ帰り上りけるが、国々の諸侯道を塞ぎて不通ける間、三人の将軍空しく帝師がはかりことに被落て、所々にて討たれにけり。これより楊子江の陣には敵を防ぐ兵一人もなければ、大元五百万騎のつはものども、推して都へ責め上るに、敢へてさへぎるべき勢なければ、宋朝の幼帝宮室きゆうしつを尽くし宗廟そうべうを捨てて、つひに南蛮国へ落ち給ふ。大元の老皇帝らうくわうてい、やがて都に入れ替はり給ひしかば、天下の諸侯皆従ひ付き奉て、大宋国四百州、忽ちに大元の世に成りにけり。さしもいみじかりし大宋国、一時にかたぶきし事も、天運に当たる時とは云ひながら、ただ帝師がはかりことに依れるものなり。今細河相摸のかみ無双ぶさうの大力世に超えたる勇士なりと聞こへしかども、細河右馬のかみ尺寸せきすんの謀に被落、一日の間に亡びぬる事、偏へに宋朝の幼帝、帝師が謀に相似たり。「人而無遠慮、必有近憂」とは、如此の事をやまうすべき。




この事がたちまち楊子江の陣に知らされると、伯顔将軍(バヤン。モンゴル帝国の将軍で、南宋討伐軍の総司令官。なので敵方なんですが)・賈丞相(賈似道かじだう。南宋末期の軍人、政治家)・呂文煥(南宋末期の軍人)らは、首を延べて罪なき由を陳情するために、大元の戦を打ち捨てて都(南宋の首都は臨安=現杭州。元の首都は大都。現北京)に帰り上りましたが、国々の諸侯が道を塞いで通さなかったので、三人の将軍は空しく帝師の謀に落ちて、所々で討たれました。この後は楊子江の陣には敵を防ぐ兵は一人もいませんでしたので、大元の五百万騎の兵どもは、兵を進めて都に攻め上りました、これを防ぐ勢はなかったので、宋朝の幼帝(南宋最後の第九代皇帝、祥興帝=衛王)は宮室を焼き尽くし宗廟を捨てて、遂に南蛮国(現在の広州)に落ちました(祥興帝はそこで入水したらしい。崖山がいざんの戦い(1279))。大元の老皇帝(大元の初代皇帝、クビライ)が、やがて都に入れ替わると、天下の諸侯は皆従い付いて、大宋国(南宋)四百州は、たちまちに大元となりました。大国であった大宋国が、一時に傾いたのは、天運の定め([図に当たる]=[思ったとおりに事が進む])とはいいながら、ただ帝師(パクパ。チベット仏教サキャ派の座主)の謀によるものでした。細川相摸守(細川清氏きようぢ)は、並びなき大力は世に超える勇士と言われていましたが、細川右馬頭(細川頼之)の尺寸([些細な事])の謀に落ちて、一日の間に亡んだのは、ひとえに宋朝の幼帝が、帝師の謀に亡んだのと同じでした。「人は遠慮なければ、必ず近憂あり」([人として、遠い将来のことを心配しない者は、必ずや近いうちに悲しむことになろう)とは、このようなことを申すのでしょう。


続く


by santalab | 2016-12-02 08:13 | 太平記

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