この事すみやかに楊子江の陣へ聞こへしかば、伯顔将軍・賈丞相・呂文煥ら、頭を延べて無罪由を陳じ申さん為に、大元の戦を打ち捨てて都へ帰り上りけるが、国々の諸侯道を塞ぎて不通ける間、三人の将軍空しく帝師が謀に被落て、所々にて討たれにけり。これより楊子江の陣には敵を防ぐ兵一人もなければ、大元五百万騎の兵ども、推して都へ責め上るに、敢へて遮るべき勢なければ、宋朝の幼帝宮室を尽くし宗廟を捨てて、遂に南蛮国へ落ち給ふ。大元の老皇帝、やがて都に入れ替はり給ひしかば、天下の諸侯皆従ひ付き奉て、大宋国四百州、忽ちに大元の世に成りにけり。さしもいみじかりし大宋国、一時に傾きし事も、天運図に当たる時とは云ひながら、ただ帝師が謀に依れるものなり。今細河相摸の守、無双大力世に超えたる勇士なりと聞こへしかども、細河右馬の頭が尺寸の謀に被落、一日の間に亡びぬる事、偏へに宋朝の幼帝、帝師が謀に相似たり。「人而無遠慮、必有近憂」とは、如此の事をや申すべき。
この事がたちまち楊子江の陣に知らされると、伯顔将軍(バヤン。モンゴル帝国の将軍で、南宋討伐軍の総司令官。なので敵方なんですが)・賈丞相(賈似道。南宋末期の軍人、政治家)・呂文煥(南宋末期の軍人)らは、首を延べて罪なき由を陳情するために、大元の戦を打ち捨てて都(南宋の首都は臨安=現杭州。元の首都は大都。現北京)に帰り上りましたが、国々の諸侯が道を塞いで通さなかったので、三人の将軍は空しく帝師の謀に落ちて、所々で討たれました。この後は楊子江の陣には敵を防ぐ兵は一人もいませんでしたので、大元の五百万騎の兵どもは、兵を進めて都に攻め上りました、これを防ぐ勢はなかったので、宋朝の幼帝(南宋最後の第九代皇帝、祥興帝=衛王)は宮室を焼き尽くし宗廟を捨てて、遂に南蛮国(現在の広州)に落ちました(祥興帝はそこで入水したらしい。崖山の戦い(1279))。大元の老皇帝(大元の初代皇帝、クビライ)が、やがて都に入れ替わると、天下の諸侯は皆従い付いて、大宋国(南宋)四百州は、たちまちに大元となりました。大国であった大宋国が、一時に傾いたのは、天運の定め([図に当たる]=[思ったとおりに事が進む])とはいいながら、ただ帝師(パクパ。チベット仏教サキャ派の座主)の謀によるものでした。細川相摸守(細川清氏)は、並びなき大力は世に超える勇士と言われていましたが、細川右馬頭(細川頼之)の尺寸([些細な事])の謀に落ちて、一日の間に亡んだのは、ひとえに宋朝の幼帝が、帝師の謀に亡んだのと同じでした。「人は遠慮なければ、必ず近憂あり」([人として、遠い将来のことを心配しない者は、必ずや近いうちに悲しむことになろう)とは、このようなことを申すのでしょう。
(続く)