君は舟臣は水、水よく船を浮かべ、水また船を覆すなり。臣よく君を保ち、臣また君を傾くと言へり。去去年の春は清氏武家の執事として、相公を扶持し奉り、今年の冬は清氏たちまちに敵となつて、相公を傾け奉る。魏徴が太宗を諌めける貞観政要の文、げにもと思ひ知られたり。同じき日の晩景に南方の官軍都に打ち入つて、将軍の御屋形を焼き払ふ。思ひの外に洛中にて合戦なかりければ、落つる勢も入る勢もともに狼籍をせず、京白川は中々にこの間よりも静かなり。ここに佐渡の判官入道道誉都を落ちける時、「我が宿所へは定めてさもとある大将を入れ替はらんずらん」とて、尋常に取りしたためて、六間の会所には大紋の畳を敷き並べ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至るまで、一様に皆置き調へて、書院には義之が草書の偈・韓愈が文集、眠蔵には、沈の枕に緞子の宿直物を取り添へて置く。十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿に懸け並べ、三石入ばかりなる大筒に酒を湛へ、遁世者二人留め置きて、「誰にてもこの宿所へ来たらん人に一献を勧めよ」と、巨細を申し置きにけり。
君は舟臣は水、水は船を浮かべるが、水はまた船を転覆させる。臣は君を補佐するが、臣はまた君を滅ぼすといわれます。去去年の春は清氏(細川清氏)が武家の執事([将軍を補佐して幕政を統轄する職])として、相公(室町幕府第二代将軍、足利義詮)を扶持([助けること])し、今年の冬は清氏はたちまちに敵となって、相公を都から追い落としました。魏徴(唐の政治家)が太宗(唐の第二代皇帝)を諌めた貞観政要([太宗の言行録])の文が、思い知られるのでした。同じ日の晩景([夕方])に南方の官軍が都に打ち入り、将軍(北畠顕能)の館を焼き払いました。意外なことに洛中での合戦がなかったので、落ちる勢も入る勢もともに狼籍を働かず、京白川はこの間よりもずっと静かでした。佐渡判官入道道誉(佐々木道誉)が都を落ちる時、「我が宿所にはもとの大将(楠木正儀)が入れ替わるであろう」と、見苦しくないように整理して、六間の会所には大紋([高麗縁]=[白地の綾に雲形や菊花などの紋を黒く織り出したもの。紋に大小があり、親王・大臣などは大紋、公卿は小紋を用いた])の畳を敷き並べ、本尊・脇絵([三幅対の掛け物で、両脇にかける絵の称])・花瓶・香炉・鑵子([鉉のある青銅製・真鍮製などの湯釜])・盆にいたるまで、一揃え皆置き調えて、書院には義之(王義之。中国東晋の政治家・書家)の草書([草書風])の偈([文])・韓愈(中国・唐中期を代表する文人)の文集(『韓昌黎集』)、眠蔵([寝室])には、沈([沈香])の枕に緞子([繻子織])の宿直物([夜具])を取り添えてありました。十二間の遠侍([主屋から遠く離れた中門のわきなどに設けられた警護の武士の詰め所])には、鳥・兔・雉・白鳥を、三竿に懸け並べ、三石入(一石=約180.39リットル)ばかりの大筒に酒を湛え、遁世者([俗世を遁れて仏門に入った者])を二人留め置いて、「誰でもこの宿所に来た人には一献を勧めよ」と、巨細([細かく詳しいこと])に申し置きました。
(続く)