その後より漢楚の軍は利あつて、秦の兵所々にて打ち負けしかば、秦の世終に亡びにけり。これを以つて思ふに、故新田義貞・義助兄弟は、先帝の股肱の臣として、武功天下無双。その子息二人義宗・義治とて越前の国にあり。共に武勇の道父に不劣、才智また世に不恥。この人々を召して竜顔に咫尺せしめ、武将に委任せられば、誰かその家を軽んじ、誰か旧功を継がざらん。これらを差し置いて、降参不儀の人を以つて大将とせられば、吉野の主上天下を被召事、千に一つも不可有。たとひ一旦軍に打ち勝たせ給ふ事あるとも、世はまた人の物とぞ思へたる。
その後より漢楚の軍が勝ち、秦の兵は所々で打ち負けて、秦の世は終に滅びました。これを思えば、故新田義貞・義助(脇屋義助)兄弟は、先帝(第九十六代、南朝初代後醍醐天皇)の股肱([主君の手足となって働く、最も頼りになる家来や部下])の臣として、武功は天下に並ぶ者はありませんでした。その子息二人義宗(新田義宗。新田義貞の三男)・義治(脇屋義治。脇屋義助の子)と申して越前国にいました。ともに武勇の道は父に劣らず、才智もまた世に恥じるものではありませんでした。この人々を召して竜顔に咫尺([貴人の前近くに出て拝謁すること])し、武将に委任すれば、いったい誰がその家を軽んじ、旧功を継ごうとしないが者がいることでしょう。これらを差し置いて、降参不儀の人を大将とすれば、吉野の主上(第九十七代、南朝第二代後村上天皇)が天下を取ることは、千に一つもありませんでした。たとえ一旦の軍に打ち勝つことがあったとしても、世はまた他人のものとなると思われました。
(続く)