この足羽の城と申すは、藤島の庄に相並んで、城郭半ばはかの庄を込めたり。これによつて平泉寺の衆徒の中より申しけるは、「藤島の庄は、当寺多年山門と相論する下地にて候ふ。もし当庄を平泉寺に付けらるべく候はば、若輩をば城々に籠め置きて合戦を致させ、宿老は惣持の扉を閉ぢて、御祈祷を致すべきにて候ふ」とぞ云ひける。尾張の守大きに悦んで、
今度合戦雌雄、倂借衆徒合力、憑霊神之擁護之上者、先以藤島の庄所付平泉寺なり。若得勝軍之利者、重可申行恩賞、仍執達如件。
建武四年七月二十七日
尾張守
平泉寺衆徒御中
と、厳密の
御教書をぞ成されける。衆徒これに勇みて、若輩五百余人は藤島へ下りて城に立て籠もり、宿老
五十人は、
炉壇の
烟に
燻り
返つて、怨敵
調伏の法をぞ行はれける。
この足羽城(現福井県福井市)というのは、藤島庄(現福井県福井市)に接して、城郭の半ばは藤島庄でした。これによって平泉寺(現福井県勝山市にある平泉寺白山神社)の衆徒([僧])の中より、「藤島庄は、当寺多年山門(延暦寺)と相論([土地について訴訟で争うこと])しております地でございます。もし当庄を平泉寺に帰属されるのならば、若輩を城々に籠め置いて合戦を致させ、宿老([年老いて経験を積んだ者])は惣持([総持]=[悪法を捨てて善法を持する意])の扉を閉じて、祈祷を致しましょう」と伝えました。尾張守(斯波高経)はたいそうよろこんで、
今度の合戦の雌雄は、ひとえに衆徒の力を借り、霊神の擁護を頼むことにより決するであろう、まず藤島庄を平泉寺に与える。もし軍に勝つことを得たならば、重ねて恩賞を申し行う。執達([通達])は以上の通り。
建武四年(1337)七月二十七日
尾張守
平泉寺衆徒御中
と、厳密の御教書([平安時代以後、三位以上の公卿または将軍の命を奉じてその部下が出した文書])をなしました。衆徒これに勇んで、若輩五百余人は藤島に下って城に立て籠もり、宿老五十人が、炉壇([護摩壇]=[護摩をたく炉を据える壇])の煙にすすけながら、怨敵調伏の法を執り行いました。
(続く)