閏七月二日、足羽の合戦と触れられたりければ、国中の官軍義貞の陣河合の庄へ馳せ集まりけり。その勢あたかも雲霞の如し。大将新田左中将義貞朝臣は、赤地の錦の直垂に脇立ばかりして、遠侍の座上に坐し給へば、脇屋右衛門の佐は、紺地の錦の直垂に、小具足計りにて、左の一の座に着き給ふ。このほか山名・大館・里見・鳥山・一井・細屋・中条・大井田・桃井以下の一族三十余人は、思ひ思ひの鎧兜に色々の太刀・刀、奇麗を尽くして東西二行に座を列す。
(延元三年(1338))閏七月二日に、足羽の合戦(藤島の戦い)をすると触れ回ったので、国中の官軍は義貞(新田義貞)の陣河合庄(現福井県福井市)に馳せ集まりました。その勢はまるで雲霞のようでした。大将新田左中将義貞朝臣は、赤地の錦の直垂に脇立([兜の立て物=兜の鉢につける飾り金物。の一])ばかり着けて、遠侍([主屋から遠く離れた中門のわきなどに設けられた警護の武士の詰め所])の座上に座していました、脇屋右衛門佐(脇屋義助。新田義貞の弟)は、紺地の錦の直垂に、小具足姿で、左の一の座に着きました。このほか山名・大舘館・里見・鳥山・一井・細屋・中条・大井田・桃井以下の一族余人は、思い思いの鎧兜に色々の太刀・刀、奇麗を尽くして東西二行に座を連ねました。
(続く)