軍散じて後、氏家中務の丞、尾張の守の前に参つて、「重国こそ新田殿の御一族かとをぼしき敵を討つて、首を取つて候へ。誰とは名乗り候はねば、名字をば知り候はねども、馬物の具の様、相順ひし兵どもの、屍骸を見て腹を切り討ち死にを仕り候ひつる体、いかさま世の常の葉武者にてはあらじと思えて候ふ。これぞその死人のはだに懸けて候いつる護りにて候ふ」とて、血をも未だ洗はぬ首に、土の付きたる金襴の守を副へてぞ出だしたりける。尾張の守この首をよくよく見給ひて、「あな不思議や、よに新田左中将の顔付きに似たる所あるぞや。もしそれならば、左の眉の上に矢の疵ある」とて自ら鬢櫛を以つて髪を掻き上げ、血を洗ぎ土を洗ひ落としてこれを見給ふに、果たして左の眉の上に疵の跡あり。これにいよいよ心付いて、帯れたる二振りの太刀を取り寄せて見給ふに、金銀を延べて作りたるに、一振りには銀を以つて金膝纏の上に鬼切と云ふ文字を沈めたり。一振りには金を以つて、銀脛巾の上に鬼丸と云ふ文字を入れられたり。これは共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝へたりと聞こゆれば、末々の一族どもの帯くべき太刀には非ずと見るに、いよいよ怪しければ、膚の守を開いて見給ふに、吉野の帝の御宸筆にて、「朝敵征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也」と遊ばされたり。さては義貞の首相違なかりけりとて、屍骸を輿に乗せ時衆八人に舁かせて、葬礼の為に往生院へ送られ、首をば朱の唐櫃に入れ、氏家の中務を副へて、潜かに京都へ上せられけり。
軍散じて後、氏家中務丞(氏家重国)は、尾張守(斯波高経)の前に参って、「この重国が新田殿の御一族かと思われます敵を討つって、首を捕って参りました。誰とも名乗りませんでしたので、名字は知りませんが、馬物の具([武具])の様、相従兵どもが、屍骸を見て腹を切り討ち死にする有様、よもや世の常の葉武者([とるに足らぬ武者])ではないと思われます。これがその死人が身に付けていた守りでございます」と申して、血もまだ洗わぬ首に、土が付いた金襴([金糸を絵緯=紋織物で模様を織り出すために用いる、地緯よりやや太い、別色の横糸。として文様を織り出した織物])の守を添えて取り出しました。尾張守はこの首をよくよく見て、「なんと不思議なことよ、新田左中将(新田義貞)の顔付きに似ておる。もしそうならば、左の眉の上に矢の疵があるはず」と自ら鬢櫛([鬢を掻き上げて整えるのに用いる、横に長く歯の粗い櫛])で髪を掻き上げ、血を洗ぎ土を洗い落としてこれを見れば、果たして左の眉の上に疵の跡がありました。ますます心になって、佩いていた二振りの太刀を取り寄せて見れば、金銀を延べて作ったものに、一振りには銀で金鎺([鎺金]=[刀剣などの刀身が鍔と接する部分にはめる金具])の上に鬼切という文字を彫り入れてありました。一振りには金で、銀鎺の上に鬼丸という文字を入れてありました(鬼切は新田義貞が日吉大宮権現の社壇に籠めたはず)。これはともに源氏重代の重宝で、義貞の方に伝えられたと言われていたので、末々の一族どもが佩く太刀ではないと思えて、ますます怪しく思い、膚の守を開いて見れば、吉野帝(第九十六代後醍醐天皇)の御宸筆で、「朝敵を征伐することこそ、叡慮に適うところである。これはひとえに義貞の武功によるものであり、他に道はない、よって速やかに朝敵征伐の計略を廻らせるべし」と書いてありました。さては義貞の首に相違ないと、屍骸を輿に乗せ時衆([時宗の僧俗])八人に舁かせて、葬礼([死体の処理に伴う儀礼。葬式])のために往生院(現福井県坂井市にある称念寺ということらしい)に送られ、首は朱の唐櫃に入れ、氏家中務(重国)を添えて、密かに京都に上らせました。
(続く)