大館左馬の助氏明は、先帝自山門京へ御出でありし時、供奉仕つてありしが、如何が思ひけん降人になり、しばらくは将軍に属して居たりけるが、先帝偸かに楼の御所を御出であつて、吉野に御座ありと聞きて、やがて馳せ参りたりしかば、君御感あつて伊予の国の守護に被補しかば、自去年春当国に居住してあり。また四条の大納言隆資子息少将有資はこの国の国司にて自去々年在国せらる。土居・得能・土肥・河田・武市・日吉の者ども、多年の宮方にして、讃岐の敵を支へ、西は土佐の畑を堺ふて居たりければ、大将下向にいよいよ勢ひを得て、竜の水を得、虎の山に靠るが如し。その威漸く近国に振るひしかば、四国は不及申、備前・備後・安芸・周防・乃至九国の方までも、また大事出で来ぬと云はぬ者こそなかりけれ。されば当国の内にも、将軍方の城僅かに十余箇所ありけるも、未だ敵も向かはぬ先に皆聞き落ちしてんげれば、今は四国悉く一統して、何事か可有と憑もしく思ひ合へり。
大館左馬助氏明(大舘氏明)は、先帝(第九十六代後醍醐天皇)が山門(延暦寺)を出られて京に戻られた時、供奉しましたが、何を思ってのことか降人となり、しばらくは将軍(室町幕府初代将軍、足利尊氏)に属していました、先帝が密かに楼御所(牢御所)をお出になられて、吉野におられると聞いて、やがて馳せ参ると、君(後醍醐天皇)は感心されて伊予国の守護に補されたので、去年の春より当国に居住していました。また四条大納言隆資(四条隆資)の子息少将有資(四条有資)は伊予国の国司として去々年より在国していました。土居・得能・土肥・河田・武市・日吉の者どもは、多年宮方として、讃岐の敵を防ぎ、西は土佐の幡多(現高知県四万十市周辺)を境にしていましたので、大将(脇屋義助。新田義貞の弟)の下向にますます勢いを得て、竜が水を得、虎が山を頼りにするようなものでした。その威は次第に近国に及んで、四国は申すに及ばず、備前・備後・安芸・周防・九国の方までも、また大事が起こらぬと言わぬ者はいませんでした。こうして当国の内にも、将軍方の城がわずかに十余箇所ありましたが、いまだ敵も向かはぬ先に皆聞き落ちしたので、今は四国は残らず一統して、何事かあろうかと頼もしく思っていました。
(続く)