後の最勝園寺貞時も、追先蹤また修行し給ひしに、その頃久我の内大臣、仙洞の叡慮に違ひ給ひて、領家悉く被没収給ひしかば、城南の茅宮に、閑寂を耕してぞ隠居し給ひける。貞時斗薮の次でにかの故宮の有様を見給ひて、『いかなる人の棲遅にてかあるらん』と、事問ひ給ふ処に、諸大夫と思しき人立ち出でて、しかしかとぞ答へける。貞時具に聞きて、『御罪科差したる事にても候はず、その上大家の一跡、この時断亡せん事無勿体候。など関東様へは御歎き候はぬやらん』と、この修行者申しければ、諸大夫、『さ候へばこそ、この御所の御様昔びれて、加様の事申せば、去る事や可有。我が身の無咎由に関東へ歎かば、仙洞の御誤りを挙ぐるに似たり。たとひ一家この時亡ぶとも、争でか臣として君の非をば可挙奉。無力、時刻到来歎かぬ所ぞと被仰候間、御家門の滅亡この時にて候ふ』と語りければ、修行者感涙を押さへて立ち帰りにけり。誰と云ふ事を不知。
後の最勝園寺貞時(鎌倉幕府第九代執権、北条貞時)も、先蹤([前例])を追ってまた修行したが、その頃久我内大臣(久我通基)は、仙洞(第八十九代後深草院?)の叡慮に違い、領家は残らず没収され、城南の茅宮に、閑寂を添えて隠居した。貞時は斗薮([衣食住に対する欲望を払い退け、身心を清浄にすること。また、その修行])の途中にかの故宮の有様を見て『いかなる人が棲遅([心静かに住むこと])しておるのだろう』と、尋ねるところに、諸大夫と思われる人が立ち出て、しかじかと答えた。貞時は詳しく話を聞いて『大した罪科でもなく、その上に大家の一跡が、この時断亡するのはもったいないことよ。どうして関東(鎌倉幕府)に嘆願されないのか』と、この修行者が申せば、諸大夫は、『そのことですが、この御所の御様(久我通基)は昔気質の人でございますれば、そのことを申すと、そんなことはできない。我が身の咎なきことを関東に嘆願することは、仙洞の誤りを上げるようなものではないか。たとえ一家がこの時亡ぶとも、どうして臣として君の非を論わねばならぬ。どうしようもないことだ、その時が来ようが悲しまぬと申されますれば、家門の滅亡は間違いありません』と語ったので、修行者は感涙を押さえて立ち帰った。修行者が誰とは知らなかったのだ。
(続く)