義助に順付きたりし多年恩顧の兵ども、土居・得能・合田・二宮・日吉・多田・三木・羽床・三宅・高市の者ども、金谷修理の大夫経氏を大将にて、兵船五百余艘にて、土肥が後攻めの為に海上に推し浮かぶ。これを聞きて、備後の鞆・尾道に舟汰へして、土肥が城へ寄せんとしける備後・安芸・周防・長門の大船千余艘にて推し出だす。両陣の兵船ども、渡中に帆を突いて、扣舷鬨を作る。塩に追ひ風に随つて推し合ひ推し合ひ相戦ひける。その中に大館左馬の助氏明が執事、岡部出羽の守が乗りたる舟十七艘、備後の宮下野の守兼信、左右に別れて漕ぎ双べたる舟四十余艘が中へ分け入りて、敵の船に乗り遷り乗り遷り、皆引つ組んで海中へ飛び入りけるこそ、厳しかりし振る舞ひなれ。
義助(脇屋義助。新田義貞の弟)に付き従ってきた多年恩顧の兵ども、土居・得能・合田・二宮・日吉・多田・三木・羽床・三宅・高市の者どもは、金谷修理大夫経氏(金谷経氏)を大将に立てて、兵船五百で、土肥(土肥義昌)の後詰め([先陣の後方に待機している軍勢])のために海上に船を押し浮かべました。これを聞いて、備後の鞆(現広島県福山市)・尾道(現広島県尾道市)に舟揃えして、土肥(義昌)の城(川之江城。現愛媛県四国中央市)へ寄せようと備後・安芸・周防・長門の大船が千余艘が押し出しました。両陣の兵船は、渡中で帆を突き合わせ、舷を当てて鬨を作りました。潮に追い風に従って押し合い押し合い戦いました。その中に大館左馬助氏明(大舘氏明)の執事、岡部出羽守が乗った舟十七艘は、備後宮下野守兼信(宮兼信)が、左右に分かれて漕ぎ並べた舟四十余艘の中へ分け入って、敵の船に乗り移り乗り移り、皆引っ組んで海中へ飛び入りました、容赦知らずの振る舞いでした。
(続く)