そもそも大内裡と申すは、秦の始皇帝の都、咸陽宮の一殿を摸して被作たれば、南北三十六町、東西二十町の外、竜尾の置ゑ石を居へて、四方に十二の門を被立たり。東には陽明・待賢・郁芳門、南には美福・朱雀・皇嘉門、西には談天・藻壁・殷富門、北には安嘉・偉鑒・達智門、この外上東・上西、二門に至る迄、守交戟衛伍長時に誡非常たり。三十六の後宮には、三千の淑女飾妝、七十二の前殿には文武の百司待詔。紫宸殿の東西に、清涼殿・温明殿。当北常寧殿・貞観殿。
そもそも大内裏というのは、秦始皇帝の都、咸陽宮(戦国時代に秦の孝公=秦の第二十五代公。が咸陽に建てた壮大な宮殿。のち、始皇帝が住んだ)の一殿を模倣して造ったもので、南北三十六町(約3.6km)、東西二十町のほか、竜尾壇([平安京大極殿の南庭にあった石造りの壇])を据えて、四方には十二の門を立てられていました。東には(北から)陽明・待賢・郁芳門、南には(東から)美福・朱雀皇嘉門、西には(南から)談天・藻壁殷富門、北には(西から)安嘉・偉鑒・達智門、このほか上東(東最北の門)・上西(西最北の門)、二門にいたるまで、守交戟([ほこを交へて守衞する者])の衛兵どもが厳しく警護しました。三十六の後宮には、三千の淑女が着飾り、七十二の前殿には文武の百司が控えました。紫宸殿([平安京内裏の正殿])の東西には、清涼殿([天皇の日常生活の居所。紫宸殿の北西に位置した])・温明殿([神鏡を安置した所。紫宸殿の北東に位置した])。北には常寧殿([皇后・女御の居所])・貞観殿([天皇の装束等を裁縫する場所。常寧殿の北に位置した])がありました。
(続く)