起き臥す露の常に、古郷を忍ぶ御涙、毎言葉繁ければ、さらでも重き濡れ衣の、袖乾く間もなかりけり、さても無実の讒によりて、被遷配所恨入骨髄、難忍思し召しければ、七日が、間御身を清め一巻の告文を遊ばして高山に登り、竿の前に着けて差し挙げ、七日御足を翹てさせ給ひたるに、梵天・帝釈もその無実をや憐れみ給ひけん。黒雲一群天より下りさがりて、この告文を把つて遥かの天にぞ揚がりける。その後延喜三年二月二十五日遂に沈左遷恨薨逝し給ひぬ。今の安楽寺を御墓所と定めて奉送置。惜しいかな北闕の春の花、随流不帰水、奈何西府の夜の月、入不晴虚命雲、されば貴賎滴涙、慕世誇淳素化、遠近呑声悲道蹈澆漓俗。
起き臥す床には絶えず、古郷を忍ぶ涙、恨む言葉も繁ければ、そうでなくとも重い濡れ衣の、袖は乾く間もありませんでした。それにしても無実の讒により、配所に遷されて恨みは骨髄に入り、忍び難く思われて、七日の、間身を清め一巻の告文([神に対して申し上げること・願いごとなどを書き記した文書])を書いて高山に登り、竿の先に付けて差し上げ、七日間足を爪立てました、梵天([正法護持の神])・帝釈([梵天と並び称される仏法守護の主神])もその無実を憐れんだのか。黒雲が一叢天から下りて、この告文を取って遥かの天に上って行きました。その後延喜三年(903)二月二十五日に遂に沈左遷の恨みに沈んだまま薨逝([親王または三位以上の人が死ぬこと])しました。今の安楽寺(今の太宰府天満宮。現福岡県太宰府市)を御墓所と定めて葬送しました。惜しいかな北闕([皇居])の春の花は、水に流れて遂に帰らず、西府(太宰府)の夜の月は、晴れずして命虚しく雲に隠れてしまいました。そして貴賎は涙を流し、淳素([すなおで飾りけがないこと])と誇った世を慕い、遠き近きも澆漓([道徳が衰え、人情の薄いこと])の俗に進むであろうと悲しみの声に咽びました。
(続く)