数日あつて後、淀の大明神の前に浅瀬ありと聞き出して、二千余騎を一手になし、流れを截つて打ち渡すに、法性寺の左兵衛の督ただ一騎、馬の駆け上がりに控へて、敵三騎切つて落とし、伸りたる太刀を押し直して、閑々と引きて返れば、山名が兵三千余騎、「大将とこそ見奉るに、蓬くも敵に後ろをば見せられ候ふものかな」とて追ひ懸けたり。「返すに難き事か」とて、兵衛の督取つて返してはつと追つ散らし、返し合はせては切つて落とし、淀の橋爪より御山まで、十七度迄こそ返されけれ。されども馬をも切られず、我が身も痛手を負はざれば、袖の菱縫ひ吹き返しに立つ処の矢少々折り懸けて、御山の陣へぞ帰られける。
数日あって後、淀大明神(現京都市伏見区にある與杼神社)の前に浅瀬があると聞き出して、二千余騎を一手になし、流れを切って打ち渡すと、法性寺左兵衛督(藤原康長)がただ一騎、馬の駆け上がりに控えて、敵三騎を切って落とし、曲がった太刀を押し直して、閑々と引いて返れば、山名(山名時氏)の兵三千余騎が、「大将と見るが、卑怯にも敵に後ろを見せるとは」と追いかけました。「返せというか」と、兵衛督は取って返してぱっと追い散らし、返し合わせては切って落とし、淀の橋詰より八幡山まで、十七度まで返しました。けれども馬も切られず、我が身も痛手を負うことなく、袖の菱縫([兜の錏、鎧の袖・草摺などの裾板に、赤革の紐や赤糸の組紐でX形に綴じた飾り])吹き返し([兜の左右の錏の両端が上方へ折れ返っている部分])に立つ矢を少々折り懸けて、八幡山の陣に帰りました。
(続く)