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「梅松論」(日本武尊より源氏三代将軍まで)

ここに「先代」と云ふは、元弘年中に滅亡せし相模守高時たかとき入道のことなり。承久元年より、武家の遺跡絶えてより以来、故頼朝卿後室二位の禅尼の計らひとして、公家より将軍を申し下りて、北条遠江守時政ときまさが子孫を執権として、関東において天下を沙汰せしなり。将軍と云ふは、人皇十二代景行天皇の御時に、東夷起こる。御子日本武尊やまとたけるのみことを以つて大将軍としてこれを征伐し給ふ。

同じき十五代神功皇后じんぐうくわうごう、自ら将軍として、諏訪・住吉の二神相伴ひ給ひて三韓を平らげ給ふ。

同じき三十二代用明天皇の御宇、厩戸王子うまやどのわうじ自ら大将として守屋もりや大臣を誅せらる。

同じき三十九代天智天皇、大織冠鎌足を以つて入鹿いるか大臣を誅せらる。

同じき四十代天武天皇、自ら大将として大友皇子を誅す。浄見原天皇きよみはらてんわうこれなり。

同じき四十五代聖武天皇、大野東人おほのあづまひとを大将として、右近衛少将太宰大弐藤原広嗣ひろつぐを誅せらる。松浦明神まつらみやうじんこれなり。

同じき四十八代称徳天皇女帝、中納言兼鎮守府将軍坂上刈田丸を以つて大将として、淡路廃帝並びに与党藤原仲麻呂なかまろを誅伐せらる。恵美押勝えみおしかつと号す。

同じき五十代桓武天皇、中納言兼鎮守府将軍坂上田村丸を遣はして、奥州の夷、赤髪以下の凶賊を平らげらる。

同じき五十二代嵯峨天皇、鎮守府将軍坂上錦丸を以つて右兵衛督藤原仲成なかなりを誅せらる。

同じき六十一代朱雀院の御宇、平貞盛さだもり・藤原秀郷ひでさと両将軍を以つて平将門を誅せらる。

同じき七十代後冷泉院の御宇、永承年中(1046-1053)に、陸奥守源頼義よりよしを以つて安部貞任さだたふらを平らげらる。

同じき七十二代白河院の御宇、永保年中に、陸奥守兼鎮守府将軍源義家よしいへを以つて清原武衡たけひら家衡いへひらを誅せらる。

同じき七十三代堀河天皇の御宇、康和年中に、因幡守平正盛まさもりを以つて対馬守源義親よしちかを討たる。

同じき七十七代後白河院御在位の始め、保元元年に、御兄崇徳院と国論の時、下野守源義朝よしとも並びに安芸守平清盛を以つて六条判官為義ためよし、右馬助平忠正ただまさらを誅せらる。

同じき七十八代二条院の御宇、平治元年に、信頼のぶより義朝よしともら大内に引き籠もりしを、清盛一力を以つて即時に討ち平らげて、天下静謐せしめき。その功に誇つて政務を恣にし、朝威を背き、悪逆無道なりしほどに、法皇潜かに院宣を下されしに依つて、頼朝義兵を発こして平家の一族らを誅伐せし叡感のあまりに、日本国中の惣追捕使、並びに征夷大将軍の職に補任せらる。御昇進、正二位大納言兼右近衛大将なり。当官補任の後、則ち両職を辞し給ふ。正治元年正月十一日、病ひによりて出家。同じき十三日に御年五十三にて逝去す。治承四年よりその期に至るまで、天下治まりて民間の愁ひもなかりしに、嫡子左衛門督頼家よりいへ遺跡を継ぎて、建仁二年にいたるまで関東の将軍なりしかども、悪事多きによりて、外祖父時政ときまさの沙汰として、伊豆国修善寺において子細あり。御年二十三。

次に頼家卿の舎弟実朝さねとも公、建仁三年より建保七年に改元承久、十七ヶ年の間、将軍として次第に昇進して、右大臣の右大将を兼ね給ふ。同じき年正月二十七日戌の刻に、鶴岡の八幡宮に御参詣の時、石橋において、当社の別当公暁くげう討ち奉る。御年二十八。則ち討つ手を遣はして、公暁を誅せらる。この時に及んで、三代の将軍の遺跡絶えし間、人々の嘆き悲しむこと申すも中々愚かなり。これに依りて百余人出家す。



「先代」と申すのは、元弘年中(1331~1334)に滅亡した相模守高時入道(北条高塒。鎌倉幕府第十四代執権)のことじゃ。承久元年(1219)以降、武家の遺跡が絶えてよりこの方、故頼朝卿の後室二位禅尼(北条政子)の計らいで、公家より将軍を申し下されて、北条遠江守時政(北条時政。鎌倉幕府初代執権。北条政子の父)の子孫を執権([鎌倉幕府で将軍を補佐し,幕政を統轄した職])として、関東において天下を治めておった。将軍と申すは、人皇十二代景行天皇の御時に、東夷が起こった。時に皇子日本武尊をもって大将軍となしてこれを征伐したんじゃよ。

同じく十五代神功皇后(第十四代仲哀天皇の皇后)は、自ら将軍として、諏訪(現長野県の諏訪湖の周辺に四箇所の境内地をもつ諏訪大社)・住吉(住吉大社。現大阪市住吉区)の二神を伴って三韓を平らげたのじゃ(三韓征伐)。

同じく三十二代用明天皇(第三十一代天皇)の御宇に、厩戸王子(聖徳太子)自らが大将として守屋大臣(物部守屋)を誅伐した。

同じく三十九代天智天皇(第三十八代天皇)は、大織冠鎌足(藤原鎌足)をもって入鹿大臣(蘇我入鹿)を誅伐した。

同じく四十代天武天皇は、自ら大将として大友皇子(第三十九代弘文天皇)を誅伐した。天武天皇とは浄見原天皇のことじゃ。

同じく四十五代聖武天皇は、大野東人を大将として、右近衛少将太宰大弐藤原広嗣(ただし、広嗣は大宰少弐)を誅伐した(藤原広嗣の乱)。松浦明神(鏡神社の祭神の一。現佐賀県唐津市)のことじゃ。

同じく四十八代称徳天皇女帝(第四十六代孝謙天皇が重祚)は、中納言兼鎮守府将軍坂上刈田丸(坂上苅田麻呂)をもって大将として、淡路廃帝(第四十七代淳仁天皇)並びに与党藤原仲麻呂を誅伐したんじゃ。恵美押勝と名乗っておったそうじゃな(藤原仲麻呂の乱)。

同じく五十代桓武天皇は、中納言兼鎮守府将軍坂上田村丸(坂上田村麻呂)を遣わして、奥州の夷、赤髪(赤頭)以下の凶賊を平らげた。

同じく五十二代嵯峨天皇は、鎮守府将軍坂上錦丸(坂上田村麻呂)をもって右兵衛督藤原仲成(藤原薬子くすこの弟)を討った(薬子の変)。

同じく六十一代朱雀院の御宇に、平貞盛・藤原秀郷両将軍をもって平将門を討ったのじゃ(承平天慶の乱)。

同じく七十代後冷泉院の御宇、永承年中(1046~1053)には、陸奥守源頼義をもって安部貞任らを平らげた(前九年の役。ただし、安部貞任の死没は康平五年(1062))。

同じく七十二代白河院の御宇、永保年中(1081~1084)には、陸奥守兼鎮守府将軍源義家をもって清原武衡・家衡(清原武衡の甥)を討ったんじゃ(後三年の役)。

同じく七十三代堀河天皇の御宇、康和年中(1099~1104)に、因幡守平正盛(平清盛の祖父)をもって対馬守源義親を討ったんじゃよ(源義親の乱。ただし、源義親が討たれたのは嘉承三年(1108)といわれている)。

同じく七十七代後白河院が在位の初め、保元元年(1156)に、兄である崇徳院(第七十五代天皇)と国を争い、下野守源義朝(源義朝。源頼朝の父)並びに安芸守平清盛をもって六条判官為義(源為義。源義朝の甥にあたる)、右馬助平忠正(平清盛の叔父にあたる)らを誅したんじゃよ(保元の乱)。

同じく七十八代二条院の御宇、平治元年(1159)には、信頼(藤原信頼)・義朝(源義朝)らが大内裏に引き籠もった(平治の乱)のじゃが、清盛(平清盛)一人の力をもって即時に討ち平らげて、天下静謐せしめたのじゃ。その功に誇って政務をほしいままにし、朝威に背き、悪逆無道を働いたが、法皇(第七十七代後白河院)はひそかに院宣を下され、頼朝(源頼朝)が義兵を起こして平家の一族らを誅伐したのであまりの叡感に、日本国中の惣追捕使([源義経追討名目で地頭とともに全国に設置した軍事検察官])、並びに征夷大将軍(鎌倉幕府初代将軍)の職に補任されたんじゃよ。その後昇進し、正二位大納言兼右近衛大将となった。当官補任の後、たちまち両職を辞したのじゃ。正治元年(1199)正月十一日に、病いにより出家。同じ正月十三日に御年五十三で逝去された。治承四年(1180)より最期に至るまで、天下は治まり民間の憂いもなかったが、嫡子左衛門督頼家(源頼家。鎌倉幕府第二代将軍)が遺跡を継ぎ、建仁二年(1202)まで関東の将軍じゃったが、悪事多く、外祖父時政(北条時政。北条政子の父。鎌倉幕府初代執権)の沙汰として、伊豆国修善寺(現静岡県伊豆市)に移され殺害されたのじゃ。御年二十三じゃった。

次に頼家卿の弟実朝公(源実朝。鎌倉幕府第三代将軍)は、建仁三年(1203)より建保七年(1219)に承久に改元があった、十七年の間、将軍として次第に昇進して、右大臣の右大将を兼ねておった。同じ年の正月二十七日戌の刻([午後八時頃])に、鶴岡八幡宮(現神奈川県鎌倉市)に参詣の時、石橋で、当社の別当公暁(源頼家の子)に討たれたんじゃ。御年二十八じゃった。たちまち討手を遣わして、公暁を誅したのじゃ。この時に及び、三代の将軍の遺跡は絶えて、人々の嘆き悲しみは申すまでもないことじゃったな。実朝公の死によって百余人が出家したんじゃよ。


続く


by santalab | 2018-01-30 14:12 | 梅松論

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