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「梅松論」(承久の変)

しかる間、関東に将軍御座おましなくては、いかがあるべきとて、二位の禅尼の計らひとして、同じき年承久元年二月二十九日、摂政道家みちいへ公の三男頼経よりつね、二歳にして関東に御下向。御母太政大臣公経きんつねの御娘なり。

嘉禄二年十二月二十九日、頼経八歳にて御元服あり。武蔵守平泰時やすとき加冠たり。

去る程に、武蔵守泰時・相摸守時房ときふさ連署として政務を執り行ふ処に、同じき承久三年の夏、後鳥羽院御気色として、関東を亡ぼさむために、先づ三浦平九郎判官胤義たねよし・佐々木弥太郎判官高重たかしげ・同じき子息経高つねたからを以つて、六波羅伊賀太郎判官光季みつすゑらを誅し、則ち官軍関東へ発向すべき由、五月十九日、その聞こえある間、二位の禅尼は、舎弟右京亮並びに諸侍らを召してのたまいしは、「我なまじひにこの命残りもて、三代将軍の墓所を西国のやからの馬の蹄にかけむこと、はなはだ口惜き次第なり。我存命しても由なし。先づ尼を害してから君の御方へ参ずべし」と泣く泣く仰せられければ、侍ども申しけるは、「我ら皆、右幕下うばつかの重恩に浴しながら、いかでか御遺跡を惜しみ奉らざるべき。西を枕とし命を捨つべき由」各々申しければ、同じき二十一日、十死一生の日なりけるに、泰時並びに時房ときふさ両大将として鎌倉を立ち給ふ。しかるに、泰時は父の義時よしときに向かひていはく、「国は皆王土にあらずといふことなし。されば和漢ともに、勅命を背く者、古今誰か安全することなし。そのもと平相国禅門は後白河院を悩まし奉りしかば、これに依りて故将軍頼朝卿潜かに勅命を蒙り、平家一類を誅伐ありしかば、忠賞官録残る処なかりき。就中、祖父時政ときまさを始めとしてその賞に預かる随一なり。しからば身に当たつて勅勘を蒙ること、嘆きてもなほ余りありて、ただ天命逃れ難きことなれば、所詮合戦を止め降参すべき由」をしきりに諫めける処に、義時ややしばらくありていはく、「この儀、尤も神妙なり。ただそれは君王の御政道正しき時のことなり。近年天下の行ひを見るに、君の御まつりごと古に代へて実を失へり。その子細は朝に勅裁ありて夕べに改まり、一処に数輩の主を補へらるる間、国土穏やかなる所なし。「わざわひいまだ及ばざる所は、恐らく関東の計らひなり。治乱は水火の戦に同じきなり。この如きの儀に及ぶ間、天下静謐の為たる間、天道に任せて合戦を致すべし。もし東士利を得ば、申し勧めたる逆臣を給ひて重科に行ふべし。また御位においては、かの院の御子孫を位に就け奉るべし。御迎ひあらば、兜を脱ぎ弓をはづし頭を延べて参るべし。これまた一義なきにあらず」とのたまひければ、泰時をはじめとして東士は各々鞭を上げて三つの道を同時に責め上る。東海道の大将軍は武蔵守泰時・相摸守時房、東山道は武田・小笠原、北陸道は式部丞朝時。都合その勢十九万騎にて発向し、三つの道から同時に洛中に乱れ入りしかば、都門たちまちに破れて逆臣ことごとく討ち取りし間、院をば隠岐国に移し奉り、則ち貞応元年に、院の御後堀河天皇を御位に就け奉る。御治世貞応元年より貞永元年に至る十一ヶ年なり。




こうして、関東に将軍がおられなくては、どうなることか、いかがあるべきと、二位禅尼(北条正子)の計らいで、同じ年承久元年(1219)の二月二十九日に、摂政道家公(九条道家)の三男頼経(藤原頼経)が、二歳にして関東に下向されたのじゃ(藤原頼経は源頼朝の同母妹である坊門姫の曾孫にあたる)。母は太政大臣公経(西園寺公経)の娘(西園寺掄子りんし)じゃった。

嘉禄二年(1226)十二月二十九日に、頼経は八歳で元服したんじゃよ。武蔵守平泰時やすとき(北条泰時。鎌倉幕府第三代執権。鎌倉幕府第二代北条義時よしときの長男)が烏帽子親([加冠]=[元服する者に冠をかぶせること])じゃった。

やがて、武蔵守泰時・相摸守時房(北条政子・北条義時の異母弟)が連署([鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職])として政務を執るところに、同じ承久三年(1221)の夏に、後鳥羽院(第八十二代天皇)のお考えにより、関東(鎌倉幕府)を亡ぼすため、まず三浦平九郎判官胤義(三浦胤義)・佐々木弥太郎判官高重(佐々木高重)・同じく子息経高(佐々木経高。ただし、経高は高重の父)らをもって、六波羅伊賀太郎判官光季(伊賀光季。京都守護)らを誅し、すぐさま官軍は関東へ発向すべしと申されたと、五月十九日に、伝わったので、二位禅尼は、弟である右京亮(北条義時。正しくは右京兆=右京権大夫)ならびに諸侍らを召して申すには、「われは無駄にこの命を長らえておるが、三代将軍(源頼朝・頼家よりいへ実朝さねとも)の墓所を西国の輩の馬の蹄に踏み荒らされては、はなはだ口惜しいことであるぞ。われが存命したところで何にもならぬ。まずこの尼(北条政子)を殺して君(後鳥羽院)の方へ参られよ」と泣く泣く申さると、侍どもが申すには、「我らは皆、右幕下(右近衛大将頼朝)の重恩にあずかりながら、どうしてご遺跡を惜しまぬことがありましょうか。西を枕として命を捨てる覚悟でございます」と各々申して、同じ五月二十一日に、十死一生の日([十死日]=[すべてに大凶とする日])じゃったが、泰時並びに時房を両大将として鎌倉を立ったんじゃよ。じゃがな、泰時は父の義時に向かって申すには、「国は皆王土ではない所はございません。なれば和漢ともに、勅命に背く者で、古今命を落とさぬ者はおりません。その昔平相国禅門(平清盛)が後白河院(第七十七代天皇)に背き、これにより故将軍頼朝卿はひそかに勅命を蒙り、平家一類([一族])を誅伐し、その忠賞官録は残るところございませんでした。申すまでもなく、祖父時政(北条時政。鎌倉幕府初代執権)をはじめとしてその賞にあずかる一番の者ではありませんか。ならばこの身ながら勅勘を被ることは、嘆いてもなお嘆ききれません、ただし天命は逃れ難いことでございますれば、ともかくも合戦を止めて降参すべきでございます」としきりに勧めたので、義時はややしばらく思案して申すには、「お主の申すこと、まことりっぱなことである。だがそれは君王の政道が正しい時のことぞ。近年の天下の行いを見るに、君の政は古とは打って変わり徳を失っておる。詳しく申せば朝に勅裁あり夕べに改め、一度に数輩の主を捕らえ、国土に穏やかな所はない。禍がここにいまだ及んでおらぬのは、おそらく関東(鎌倉幕府)のおかげであろう。治乱は水火の戦([水火の争い]=[水と火のように正反対の性格を持っていたり、相容れない立場にあって、非常に仲の悪い者同士の争いをたとえた言葉])に同じ。そう思えば、天下静謐のためならば、天道に任せて合戦を致すべきぞ。もし東国武士が軍に勝ったならば、後白河院に進言した逆臣を譲り受けて重科に処すべし。また位においては、かの院のご子孫を位に就け奉るべし。お迎えがあれば、兜を脱ぎ弓を外し頭を延べて参るべし。これもまた一理ではないか」と申したので、泰時をはじめとして東国武士は各々急ぎ三つの道(東海道・東山道・北陸道)を同時に攻め上ったのじゃ。東海道の大将軍は武蔵守泰時・相摸守時房、東山道は武田(武田信光のぶみつ)・小笠原(小笠原長清ながきよ)、北陸道は式部丞朝時(北条朝時。北条義時の次男)。都合その勢十九万騎で発向し、三つの道から同時に洛中に乱れ入ったので、都門はたちまちに破られて逆臣は一人残らず討ち取られた、後白河院を隠岐国に移し奉り、すぐさま貞応元年(1222)に、高倉院(第八十代天皇)のお孫後堀河天皇(第八十六代天皇)を位に就け奉ったんじゃよ。治世は貞応元年より貞永元年(1232)に至る十一年間じゃった。


続く


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by santalab | 2018-01-31 11:39 | 梅松論 | Comments(0)

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