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「梅松論」(天皇・将軍・執権)

次に四条院、天福元年より仁治三年に至るまで御治世十年なり。

次に後嵯峨天皇、寛元元年より同じき四年に至るまで御治世なり。

次に後深草院、宝治元年より正元元年に至るまで御治世十三年なり。

次に亀山院、文応元年より文永十一年に至るまで御治世十五年なり。

次に後宇田院、建治元年より弘安十年に至るまで御治世十三年なり。

次に伏見院、正応元年より永仁六年に至るまで御治世十一年なり。

次に持明院、正安元年より同じき三年に至るまで御治世なり。

次に後二条院、乾元元年より徳治二年に至る御治世六ヶ年なり。

次に萩原院、延慶元年より文保二年に至るまで御治世十一年。

後醍醐院、元応元年より元弘元年に至るまで御治世十三年。

次に当今の量仁かずひと。また当今豊仁とよひと。およそ人皇始まりて神武天皇より後嵯峨院の御宇に至るまで、九十余代にてまします。

次に治承四年より元弘三年に至るまで百五十四年の間、関東将軍家並びに執権の次第は頼朝・頼家よりいへ実朝さねとも、以上三代武家なり。また頼経よりつね頼嗣よりつぐ、以上二代は摂政家なり。また宗尊むねたか惟康これやす久明ひさあき守邦もりくに、以上四代は親王なり。惣じて九代なり。

次に執権の次第は、遠江守時政ときまさ義時よしとき泰時やすとき時氏ときうぢ経時つねとき時頼ときより時宗ときむね貞時さだとき高時たかとき、以上九代皆以つて将軍家の御後見として政務を申し行ひ、天下を治め、武蔵・相摸両国のかみをもて職として、一族の中の器用を選び著して、御下し文・下知らを将軍の仰せらるるに依りて申し沙汰しける。元三がんさん椀飯おうばん、弓場始め・遅れの座・貢ぎ馬・随兵以下の役職の輩、諸侍どもに対しては、傍輩の義を存す。昇進においては家督を得宗と号す。従四品下を以つて先途として、遂に過分の振る舞ひなくして、政道に専らにして仏神を尊敬し、万民を憐れみ育みしかば、吹く風の草木をなびかすが如くに従ひ付きしほどに、天下悉く治まりて、代々目出度ぞありける。




次は四条院(第八十七代天皇)じゃ、天福元年(1233)より仁治三年(1242)に至るまで治世は十年じゃった。

次は後嵯峨天皇(第八十八代天皇)じゃ、寛元元年(1243)より同じ寛元四年(1246)に至るまで治世された。

次は後深草院(第八十九代天皇。【持明院統】)じゃ、宝治元年(1247)より正元元年(1259)に至るまで治世は十三年じゃった。

次は亀山院(第九十代天皇。【大覚寺統】)、文応元年(1260)より文永十一年(1274)に至るまで治世は十五年じゃった。

次は後宇田院(第九十一代天皇。【大覚寺統】)じゃ、建治元年(1275)より弘安十年(1287)に至るまで治世は十三年じゃった。

次は伏見院(第九十二代天皇。【持明院統】)じゃ、正応元年(1288)より永仁六年(1298)に至るまで治世十一年じゃった。

次は持明院(第九十三代後伏見天皇。【持明院統】)じゃ、正安元年(1299)より同じ正安三年(1301)に至るまで治世された。

次は後二条院(第九十四代天皇。【大覚寺統】)じゃ、乾元元年(1302)より徳治二年(1307)に至る治世は六ヶ年じゃった。

次は萩原院(第九十五代花園天皇。【持明院統】)じゃ、延慶元年(1308)より文保二年(1318)に至るまで御治十一年じゃった。

後醍醐院(第九十六代天皇。【大覚寺統】)は、元応元年(1320)より元弘元年(1332)に至るまでの治世十三年じゃった。

次には今の量仁(北朝初代光厳天皇。【持明院統】)。また今の豊仁(北朝第二代光明天皇。【持明院統】)じゃ。およそ人皇の時代となられて神武天皇より後嵯峨院の御宇に至るまで、九十余代であられるぞ。

次に治承四年(1180)より元弘三年(1334)に至るまで百五十四年の間の、関東将軍家並びに執権の次第じゃが頼朝(源頼朝。鎌倉幕府初代将軍)・頼家(源頼家。頼朝の次男。鎌倉幕府第二代将軍)・実朝(源実朝。頼朝の四男。鎌倉幕府第三代将軍)、以上三代は武家じゃ。また頼経(藤原頼経。鎌倉幕府第四代将軍)・頼嗣(藤原頼嗣。頼経の子。鎌倉幕府第五代将軍)、以上二代は摂政家じゃ。また宗尊(後嵯峨天皇の第一皇子。鎌倉幕府第六代将軍)・惟康(宗尊親王の嫡男。鎌倉幕府第七代将軍)・久明(後深草天皇の第六皇子。鎌倉幕府八代将軍)・守邦(久明親王の子。鎌倉幕府第九代将軍)、以上四代は親王じゃ。合わせて九代じゃった。

次に執権の次第じゃが、遠江守時政(北条時政。鎌倉幕府初代執権)・義時(北条義時。時政の次男。鎌倉幕府の第二代執権)・泰時(北条泰時。義時の長男。鎌倉幕府第三代執権)・時氏(北条時氏。泰時の長男。早世したため執権にはなっていない)・経時(北条経時。時氏の長男。鎌倉幕府第四代執権)・時頼(北条時頼。時氏の次男。鎌倉幕府第五代執権)・時宗(北条時宗。時頼の子。鎌倉幕府第八代執権)・貞時(北条貞時。時宗の嫡男。鎌倉幕府第五九代執権)・高時(北条高時。貞時の三男。鎌倉幕府第十四代執権)、以上九代が皆将軍家の後見として政務を執り行い、天下を治め、武蔵・相摸両国の国守を職として、一族の中の器用([すぐれた才能のある人])を選び出して、下し文([上位者が下位者あてに下した公文書])・下知などを将軍の申されるに従い取り計らったのじゃ。元三の椀飯(鎌倉幕府では元日より数日にわたり、北条氏をはじめとする有力な御家人が将軍に対して太刀・名馬・弓矢とともに椀飯を奉った)、弓場始め(弓奉行。[御弓始め]=[中世以降、毎年正月に幕府で行われた弓を射る儀式])・遅れの座(織手座?平安時代中期以後に摂関家や院庁、寺社が寄人などの形で独自に織手を抱えるようになった)・貢ぎ馬(貢馬こうば奉行。[貢馬]=[幕府から朝廷に献上する馬を将軍が内覧する儀式])・随兵([将軍外出時の護衛のための武装騎馬武者])以下の役職の者ども、諸侍どもは、傍輩([同じ主人に仕えた仲間])に限られておった。昇進においては家督([その家を継ぐべき子])を得宗([鎌倉幕府の北条氏惣領の家系])と呼んでおったんじゃ。従四品下を先途([最高])として、過分の振る舞いもなく、政道に専念して仏神を尊敬し、万民を憐れみ育んだので、吹く風が草木を靡かすように皆人は従ったのじゃよ、天下は残りなく治まり、代々めでたくあったの。


続く


by santalab | 2018-02-02 11:21 | 梅松論

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