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「梅松論」(受禅のこと)

しかるに高時たかときの執権は、正和五年より正中二年に至るまで十ヶ年なり。同じ正中二年の夏、病ひによりて落髪せられしかば、嘉暦元年より守時もりとき維貞これさだを以つて連署なり。これより関東の政道は漸く非義の聞こえ多かりけり。中にも殊更御在位のことを申し違へしかば、いかでか天命背かざらん。

その故は昔より、受禅と申すは代々の帝禅を受け給ひて、御在位の時は儲君ちよくんを以つて東宮に立て給ひしかば、宝祚乱るることのなかりき。あらまし往事を聞くに、天智天皇の御子大伴皇子を差し置き、御弟天武を以つて御位を譲り奉り給ひしかば、御即位の望みなき由を顕はさんがために天武吉野山に入り給ふ処に、大伴皇子天武を襲ひ給ひける間、伊賀・伊勢に御出ありて大神宮を拝し給ひて、官軍を駈りもよふし、美濃・近江の境において合戦を決して、遂に大伴の乱を平らげて位に即き給ふ。清見原天皇これなり。

次に光仁天皇譲りを受け給ふ。則ち子細あるによりて、宰相藤原百川ももかは卿を誅して即位し給ふ。

次に嵯峨天皇の御在位の時、尚侍の勧めによりて平城へいぜいの先帝合戦に及ぶといへども、桓武天皇の叡慮に任せて嵯峨天皇御在位を全うし給ふ。

次に文徳天皇の御子惟喬これたか惟仁これひと御気色何も分き難きに依りて、御即位のこと天気御計らひ難き間、相撲競馬雌雄決して、その勝ちに任せて清和御門御禅を受け給ひける。

保元に鳥羽崩御ありて、十ヶ日のうちに崇徳上皇と御兄弟御位争ひありしかば、勅命に任せて洛中に陣を取り、合戦に及ぶといへども、天の依るに任せて、終に主上御位を全うし給ひて、崇徳院は讃岐国に遷り奉り、院宣を受けし源平の軍士悉く誅せらる。

次に高倉院は賢王にてましましければ、御在位のほどは天下安全にて宝祚久しかるべき所に、安徳天皇三歳にして御即位し給ひける。これは外祖父清盛禅門の計らひなり。剰へ天下の政務をほしいままにせしほどに、則ち天に背きしなり。

次に承久に後鳥羽院、世を乱し給ひしに依りて隠岐国に移し奉る。御孫後堀河天皇を関東より御位に即け奉る。皆一旦御譲りの障害たりといへども、遂に正義に帰するなり。




さて高時(北条高塒。鎌倉幕府第十四代執権)の執権は、正和五年(1316)より正中二年(1325)に至るまでの十年間じゃった。同じ正中二年の夏、病いによって出家して、嘉暦元年(1326)より守時(北条守時。鎌倉幕府第十六代執権)は維貞(北条維貞=大仏おさらぎ維貞)を連署([鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職])として執権したのじゃ。それより関東の政道はしばらく非義([道理にはずれること])が多く聞こえるようになった。中でもとりわけ在位のことを反故にしたんじゃから、どうして天命に背かぬことがあろうか。

その訳じゃが昔から、受禅([先帝から帝位を譲られて即位すること])と申すのは代々の帝禅を受け、ご在位の時は儲君([皇太子])を東宮に立てるものじゃから、宝祚([天子の位。皇位])が乱れることはなかったのじゃ。粗方昔のことを聞くに、天智天皇(第三十八代天皇)の皇子大伴皇子(天智天皇の第一皇子。第三十九代弘文天皇)を差し置き、弟の天武(第四十代天皇)を位を譲ったもんじゃから、即位の望みがないことを示すために、天武は吉野山に入ったが、大伴皇子が天武を襲ったので、天武は伊賀・伊勢に逃れ大神宮(現三重県伊勢市にある伊勢神宮)を拝して、官軍を駆り集め、美濃・近江の境において合戦を決して、遂に大伴の乱(壬申の乱(672))を平らげて位に即かれたのじゃ。清見原天皇(天武天皇)のことじゃよ。

次には光仁天皇(第四十九代天皇)が譲位を受けられた。すなわち訳あって、宰相藤原百川卿を誅して即位された(百川は、光仁天皇擁立に尽力したとされ、その後要務を勤めた)。

次には嵯峨天皇(第五十二代天皇)ご在位の時、尚侍の勧めにより平城の先帝(第五十一代平城天皇)は合戦(薬子の変(810))に及んだが、桓武天皇(第五十代天皇)の叡慮に任せて嵯峨天皇は在位を全うしたんじゃ。

次には文徳天皇(第五十五代天皇)の皇子惟喬(文徳天皇の第一皇子)・惟仁(文徳天皇の第四皇子。第五十六代清和天皇)に対する寵愛は分け隔てなかったので、ご即位については天気([天子の機嫌])を決めかねて、相撲競馬により雌雄を決し、その勝ち通り清和天皇が禅譲を受けられたのじゃ。

保元(元年(1156))に鳥羽(第七十四代天皇)が崩御されて、十日のうちに崇徳上皇(第七十五代天皇)とご兄弟(第七十五代後白河天皇)が位を争い、勅命に任せて洛中に陣を取り、合戦に及んだが、天の味方によって、終に主上が位を全うし、崇徳院は讃岐国に遷されて、院宣を受けた源平の軍士は残らず誅されたのじゃよ。

次には高倉院(第八十一代天皇)じゃが賢王であられたので、ご在位のほどは天下安全にて宝祚([天子の位。皇位])は久しくあるべきじゃったが、安徳天皇(高倉天皇の第一皇子。第八十一代天皇)が三歳にしてご即位されたのじゃ。これは外祖父清盛禅門(平清盛)の意向じゃった。その上天下の政務をほしいままにしたので、たちまち天に背くことになったんじゃよ。

次には承久に後鳥羽院(第八十二代天皇)が、世を乱して(承久の乱(1221))隠岐国に移されたんじゃ。高倉院のお孫後堀河天皇を関東(鎌倉幕府)の意向により位により即けたんじゃよ。皆一旦譲位に障害があったが、遂には正義に帰したのじゃ。


続く


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by santalab | 2018-02-07 08:28 | 梅松論 | Comments(0)

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