Santa Lab's Blog


2015年 07月 24日 ( 4 )



「栄花物語」月の宴(その7)

さればただ今は、この太政大臣の御子ども、やがていとやむごとなき殿ばらにておはす。この殿ばら皆各々をのをの御子ども様々にておはする中に、九条の師輔もろすけ大臣おとど、いとたたはしくおはして、数多あまたの北の方の御腹に、をとこ十一人、をんな六人ぞおはしける。小野宮の左大臣殿は、男三人ばかりぞおはしける。女君もおはしけり、一所は宮腹の具にておはす。差し次は女御にておはしけり。次々様々にておはす。小一条の師尹もろただの大臣、男子二人、女一所ぞおはしける。男子一人は、はかなうなり給ひにけり。




こうして今では、この太政大臣(藤原忠平ただひら)の子たちは、次第に身分高くなりました。この殿たちには皆それぞれ子が多くいましたが、九条師輔大臣(藤原師輔)には、たいそう多く子がありました、多くの北の方の腹に、男十一人(十二人、一人は僧)、女は六人いました。小野宮左大臣殿(藤原実頼さねより)には、男が三人ほどいました。女君もいました、一人は宮腹(源高明たかあきら。第六十代醍醐天皇の第十皇子)の妻でした。差し次([すぐ次])は女御(三女、藤原述子。第六十二代村上天皇女御)でした。次々それぞれでした。小一条師尹大臣(藤原師尹)には、男の子二人、娘が一人いました。男子一人(藤原定時さだとき)は、若くして亡くなりました。


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by santalab | 2015-07-24 21:21 | 栄花物語


「栄花物語」月の宴(その6)

ただ今の摂政太政大臣にては、基経もとつね大臣おとどの御子、四郎忠平ただひらの大臣、帝の叔父をぢにて、世をまつりごちておはす。その大臣の御子五人ぞおはしける。太郎は今の左大臣にて、実頼さねよりと聞こえて、小野宮と言ふ所に住み給ふ。次郎は右大臣にて、師輔もろすけの大臣、九条と言ふ所に住み給ふ。三郎の御有様おぼつかなし。四郎師氏もろうぢと聞こえける、大納言までなり給ひける。五郎師尹もろただの左大臣と聞こえて、小一条と言ふ所に住み給ふ。




この時の摂政太政大臣は、基経大臣(藤原基経)の子、四男忠平大臣(藤原忠平)でした、帝(第六十二代村上天皇)の叔父でしたので、世を治めました。忠平大臣には男子が五人いました。長男は今の左大臣で、実頼(藤原実頼。摂政関白太政大臣)と申して、小野宮(現京都市中京区。地下東西線丸田町近く)という所に住みました。次男は右大臣で、師輔大臣(藤原師輔)、九条という所に住みました。三男(藤原師保もろやす)のことはよく知りません(出家したらしい)。四男は師氏(藤原師氏)と申して、大納言までなりました。五男は師尹左大臣(藤原師尹)と申して、小一条という所に住みました。


続く


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by santalab | 2015-07-24 21:16 | 栄花物語


「栄花物語」月の宴(その5)

かくて、今のうへの御心ばへあらまほしく、あるべき限りおはしましけり。醍醐の聖帝世にめでたくおはしましけるに、またこの帝、堯のこのげうならむやうに、大方おほかたの御心ばへの雄々ををしう、気高く賢うおはしますものから、御ざえも限りなし。和歌の方にもいみじうませ給へり。よろづに情けあり、
物のえおはしまし、そこらの女御御息所まゐり集まり給へるを、時あるも時なきも、御心ざしのほどこよなけれど、いささか恥ぢがましげに、いとほしげにもてなしなどもせさせ給はず。なのめに情けありて、めでたう思し召し渡して、なだらかに掟させ給へれば、この女御御息所たちの御仲も、いと目安く便びんなき事聞こえず。くせぐせしからずなどして、御子まれ給へるは、さる方に重々しくもてなさせ給ふ。さらぬはべう御物忌みなどにて、徒然に思さるる日などは、御前おまへに召し出でて、碁双六打たせ、へんを継がせ、石な取りをせさせて、御覧じなどまでぞおはしましければ、皆かたみに情けを交はし、をかしうなんおはし合ひける。かく帝の御心のめでたければ、吹く風も枝を鳴らさずなどあればにや、春の花もにほひのどけく、秋の紅葉もみぢも枝に留まり、いと心のどかなる御有様なり。




こうして、今上天皇(第六十二代村上天皇)のお人柄はたいそうご立派で、超えるものがないほどでございました。醍醐天皇(第六十代天皇)の世はすばらしいものでしたが、この帝(村上天皇)もまた、堯([中国古代の伝説上の聖天子の名])が堯であったように、正しく男らしく、気品高く賢いお方で、才能に長けておられました。和歌にもたいそう親しまれておられました。万民を愛され、美しくあられたので、女御御息所が多くおられて、時折々、情けをかけておられましたが、決して途絶えることもなく、分け隔てもありませんでした。心から寵愛されて、違いなく情けをおかけになられたので、円満でございました、女御御息所たちの仲も、とてもよくて争いはございませんでした。女御御息所たちに、皇子がお生まれになられたならば、とりわけ大事になさりました。また物忌みで、暇を持て余した日には、女御御息所たちを御前に呼び集めて、碁や双六打たせ、篇継ぎ([漢字のつくりを示して偏を当てさせる遊戯。また、漢字の旁を示して、それに偏をつけた文字を順次考えさせ、行き詰まった者を負けとする遊戯])や、石な取り([石子いしなご]=[女児の遊戯の一。石をまき、その中の一つを投げ上げておいて、下の石を拾い、落ちてくる石をつかみ取って、順に拾い尽くす遊び。お手玉などの原型])をさせて、御覧になられましたので、誰かれも互いに情けを交わし、仲のよいことでございました。このように村上天皇のお人柄が優れておられたので、吹く風も枝を鳴らさぬほどでした、春の花も匂いを漂わせ、秋の紅葉も枝から落ちず、たいそう平穏に過ごされておいででございました。


続く


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by santalab | 2015-07-24 21:11 | 栄花物語


「曽我物語」小二郎語らひ得ざる事(その4)

ややありて、五朗ごらうまうしけるは、「さればこそ、今はよき事あらじ、日本一につぽんいち不覚悟人ふかくごじんにてありけるもの。所知荘園しやうゑんの敵ならばこそ、訴訟をも致さめ。不思議の事を言ひつるものかな。かねを試みるは火なり。人を試みるは酒なり。かの者は、酒をだに飲みぬれば、何事がな言はんと思ふ者なり。それ、大海だいかいほとりの猩々しやうじやうは、酒にぢやくして、血を絞られ、滄海さうかいの底のさいは、酒を好みて、角を切らるるなり。斯様かやうことわりを知りながら、言ひつる事こそ悔しけれ。一定いちぢやう、二宮の太郎に言ひつること思えたり。それ、曽我殿に語りなん。さあらば、母も知り給ふべし。かれこれ以つて、祐経すけつねに知られ、かへりて狙はれん事、疑ひなし。斯かる大事こそさうらはね。第一、上へ聞こし召されては、死罪・流罪にも行はれ、身をいたづらにせん事の無念さよ。いざや、この事漏れぬ先に、小二郎こじらうが細首打ち落とし、九万九千くまんくせんの軍神の血祭りにせん。我らがしたるとは、たれか知るべき」と怒りければ、




しばらくして、五朗(曽我時致ときむね)が申すには、「だから、申すべきではないと、日本一の不覚悟人(覚悟のない者)とは。ふかくごじんにてありけるもの。所知([所領])荘園の敵であればこそ、不思議なことを言うものよ。金を溶かすのは火です。人を知るのは酒です。この者は、酒を吞めば、余計なことを申す者です。これは、大海の辺りの猩々([古典書物に記された架空の動物])は、酒に誘われて、血を絞られ、滄海の底の犀は、酒を好んで、角を切られました。かようの道理を知りながら、申すとは我らへの侮辱です。きっと、二宮太郎(二宮朝忠ともただ。曽我兄弟の姉婿)に話すことでしょう。それを、曽我殿(曽我祐信すけのぶ)に語りましょう。こうして、母の知るところとなるでしょう。そして、祐経(工藤祐経)に知られ、逆に狙われること、疑いありません。それほどの大事なのです。第一、上(源頼朝)が聞かれたら、死罪・流罪も行はれ、命を落とす無念さよ。ならば、このことが漏れる前に、小二郎の細首を打ち落とし、九万九千の軍神(軍神は九万九千いるらしい)の生贄として血祭りにしましょう。我らがしたと、誰か知りましょう」と怒りました、


続く


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by santalab | 2015-07-24 08:48 | 曽我物語

    

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