敗軍の士卒相集つて、二千余騎ありけるその中より、日来手柄露はし名を被知たる兵を、三百余騎選り出だして、懸け合ひの合戦に勝負を決せんと云ふ。これは細川刑部の大輔目に余る程の大勢なりと聞き、「中々何ともなき取り集め勢を対揚して合戦をせば、臆病武者に引き立てられて、御方の負けをする事あるべし。ただ一騎当千の兵を選つて敵の大勢を懸け破り、大将細川刑部の大輔と引つ組んで差し違へんとの謀なり。さらば敵の国中へ入らぬ先に打つ立て」とて、金谷修理の大夫経氏を大将として、選つたる兵三百騎、皆一様に曼荼羅を書きて母衣に懸けて、とても生きては帰るまじき軍なればとて、十死一生の日を吉日に取つて、大勢の敵に向かひける心の中、樊噲も周勃も未だ得ざる振る舞ひなり。あはれただ勇士の義を存する心ざしほど、やさしくも哀れなる事はあらじとて、これを聞きける者は、皆鎧の袖をぞ濡らしける。
敗軍の士卒が集まって、二千余騎の中より、日来手柄を立て名の知られた兵を、三百余騎選び出して、駆け合いの合戦で勝負を決しようと言いました。これは細川刑部大輔(細川頼春)が目に余るほどの大勢と聞き、「さして役にも立たぬ取り集め勢を対揚([対等])になして合戦すれば、臆病武者に引き立てられて、味方が負けることもあるかも知れぬ。ただ一騎当千の兵を選んで敵の大勢を駆け破り、大将細川刑部大輔(頼春)と引っ組んで刺し違えようとの企てでした。ならば敵が国中へ入らぬ先に立て」と、金谷修理大夫経氏(金谷経氏)を大将として、選鋭の兵三百騎は、皆一様に曼荼羅を書いて母衣([矢や石などから防御するための甲冑の補助武具])に懸けて、とても生きては帰れぬ軍なればと、十死一生の日([十死日]=[暦注の一。すべてに大凶とする日])を吉日に取って、大勢の敵に向かう心の内は、樊噲(中国の秦末から前漢初期にかけての武将)も周勃(中国秦末から前漢初期にかけての武将、政治家)も敵わぬ振る舞いでした。勇士の義を存する心ざしほど、情け深いことはないと、これを聞く者は、皆鎧の袖を濡らしました。
(続く)