人気ブログランキング |

Santa Lab's Blog


2017年 04月 23日 ( 3 )



「太平記」武蔵野合戦の事(その1)

三浦が相図あひづ相違したるをば、新田武蔵のかみ夢にも不知、時刻よく成りぬと急ぎ、明くればうるふ二月二十日の辰の刻に、武蔵野の小手差原こてさしはらへ打ち臨み給ふ。一方の大将には、新田武蔵のかみ義宗よしむね五万余騎、白旗しらはた・中黒・頭黒かしらくろ、打ち輪の旗は児玉党、坂東の八平氏・赤印一揆を五手いつてに引き分けて、五所いつところに陣をぞ取つたりける。一方には新田左兵衛さひやうゑすけ義興よしおきを大将にて、その勢都合二万余騎、片喰かたばみ・鷹の羽・一文字・十五夜の月弓一揆、引いては一人もかへらじとこれも五手に一揆して四方しはう六里に控へたり。一方には脇屋左衛門さゑもんすけ義治よしはるを大将にて、二万余騎、大旗・小旗・下濃すそごの旗、鍬形くはがた一揆・母衣ほろ一揆、これも五箇所に陣を張り、射手をば左右に進ませて懸け手は後ろに控へたり。




三浦(三浦時継ときつぐ)が相図に相違したことを、新田武蔵守(新田義宗。新田義貞の三男)は夢にも思わず、時刻到来と急いで、夜が明けると(観応三年(1352))閏二月二十日の辰の刻([午前八時頃])に、武蔵野の小手指原(現埼玉県所沢市)に打ち臨みました。一方の大将には、新田武蔵守義宗(新田義宗。新田義貞の三男)五万余騎、白旗・中黒・頭黒、団扇の旗は児玉党、坂東八平氏・赤印一揆を五手に引き分けて、五所に陣を取りました。一方には新田左兵衛佐義興(新田義興。新田義貞の次男)を大将として、その勢都合二万余騎、片喰・鷹の羽・一文字・十五夜の月弓一揆、引いては一人も帰らじとこれも五手に一揆して四方六里に控えました。一方には脇屋左衛門佐義治(脇屋義治。新田義貞の弟、脇屋義助よしすけの子)を大将として、二万余騎、大旗・小旗・下濃の旗、鍬形一揆・母衣一揆、これも五箇所に陣を張り、射手を左右に進ませて駆け手は後ろに控えました。


続く


by santalab | 2017-04-23 10:30 | 太平記


「太平記」新田起義兵事(その9)

父の禅門大きに興を醒まして、急ぎ三浦が許に行きて、「父の子を思ふ如く、子は父を思はぬ者にて候ひけり。この事右馬のかみに知らず、敵の中に残りて討たれもやせんずらんと思ふ悲しさに、告げ知らせて候へば、もつてのほかに気色きしよくを損じて、この事将軍に告げ申さでは叶ふまじきとて、かへり候ひつるはいかに。この者が気色、よも告げ申さぬ事は候はじ、いかさまやがて討つ手を向けられんと思え候ふ。いざさせ給へ。今夜我らが勢を引き分けて、関戸せきとより武蔵野へまはつて、新田の人々と一つになり、明日の合戦を致し候はん」とのたまひければ、多日たじつはかりことたちまちにあらはれて、かへつて身のわざはひになりぬと恐怖して、三浦・葦名・二階堂にかいだう手勢三千騎を引き分け、寄せ手の勢にくははらんと関戸をまはつて落ち行く。これぞ早や将軍の御運尽きざるところなれ。




父である禅門(石塔頼茂よりしげ)はたいそう落胆して、急ぎ三浦(三浦時継ときつぐ)の許に行き、「父が子を思うほど、子は父を思わぬものですな。この事を右馬頭(石塔頼房よりふさ)に知らせぬまま、敵の中に残り討たれるやもと思えば悲しくて、告げ知らせれば、思いの外に気色を損じて、この事を将軍(足利尊氏)に告げ申さなくてはと、帰ってしまったがどういうことか。あの様子では、よもや告げ知らせぬことはなかろう。こうなっては仕方ない。今夜我らの勢を引き分けて、関戸(現東京都多摩市)より武蔵野に廻って、新田の人々と一つになり、明日の合戦をいたそうではないか」と申したので、多日の謀がたちまちに露見して、かえって身の禍いとなったことを恐れ、三浦・葦名・二階堂は手勢三千騎を引き分け、寄せ手の勢に加わろうと関戸を廻って落ち行きました。これこそ将軍の運が尽きていない証しでした。


続く


by santalab | 2017-04-23 09:20 | 太平記


「太平記」神泉苑の事(その3)

守敏しゆびん前後の不覚に失色、損気給へる処に、大師そばなる障子しやうじの内より御出であつて、「いかに守敏、空海これにありとは被存知候はざりけるか。星の光は消朝日蛍の火は隠暁月」とぞわらはれける。守敏おほきに恥之挿欝陶於心中、隠嗔恚於気上被退出けり。自其守敏君を恨み申すいきどほり入骨髄深かりければ、天下に大旱魃だいかんばつをやりて、四海の民を無一人飢渇けかちに合はせんと思つて、一大三千界のうちにある所の竜神どもを捕へて、わづかなる水瓶すゐへいの内に押し篭めてぞ置きたりける。これによつて孟夏まうか三月の間、雨降る事なくして、農民不勤耕作。天下の愁へ一人いちじんの罪にぞ帰しける。君遥かに天災の民に害ある事をへ思し召して、弘法こうぼふ大師を召ししやうじて、雨の祈りをぞ被仰付ける。大師承勅、先づ一七日ひとなぬかの間入定、明らかに三千界のうちを御覧ずるに、内海・外海げかいの竜神ども、悉く守敏の以呪力、水瓶すゐへいうちに駆り篭めて可降雨竜神なかりけり。但し北天竺のさかひ大雪山の北に無熱池むねつちと云ふ池の善女ぜんによ竜王、独り守敏しゆびんより上位の薩埵さつたにておはしましける。大師ぢやうより出でて、この由を奏聞ありければ、俄かに大内だいだいの前に池を掘らせ、清涼せいりやうの水をたたへて竜王をぞ勧請くわんじやうし給ひける。




守敏は前後不覚にも色を失い、気を損じるところに、弘法大師は側の障子の内から出て、「どうした守敏よ、空海がここにいると分からなかったか。星の光は朝日に消え蛍の火は暁の月に隠れる」と申して笑いました。守敏はたいそう恥をかいて心中穏やかならず、嗔恚([三毒・十悪の一。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと])を心の内に抱きながら退出しました。自ずと守敏は君を恨みその憤りは骨髄に深く入って、天下に大旱魃を起こして、四海([国内])の民を一人残らず飢渇([飢えとかわき])の目に合わせようと思い、一大三千界の中にある竜神どもを捕えて、小さな水瓶の中に押し籠めてしまいました。こうして孟夏([夏の初め。初夏])三月の間、雨は降ることなく、農民は耕作することができませんでした。天下の愁えは一人(天皇)の罪に帰しました。君は遥かに天災が民に害を及ぼすであろうと思われて、弘法大師(空海)を召し請じて、雨の祈りを命じられました。弘法大師は勅を承り、まず一七日(七日間)の間入定([禅定にはいること。精神を統一して煩悩を去り、無我の境地に入ること])、明らかに三千界の中を見ると、内海・外海の竜神どもは、残らず守敏の呪力によって、水瓶の中に籠められて雨を降らす竜神はいませんでした。ただし北天竺の境大雪山の北に無熱池([阿耨達池あのくだつち]=[ヒマラヤの北にあるという想像上の池。阿耨達竜王が住むという])という池の善女竜王([『法華経・提婆達多品』に現れる八大竜王の一尊])だけが、守敏より上位の薩埵([衆生])でした。弘法大師は定([高度の精神集中のこと。ある対象に精神を集中して乱れない状態])より出て、この旨を奏聞すると、急ぎ大内裏の前に池を掘らせ、清涼の水を湛えて竜王を勧請しました。


続く


by santalab | 2017-04-23 09:14 | 太平記

    
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧