新田武蔵守は、将軍の御運に退緩して、石浜の合戦に本意を不達しかば、武蔵の国を前になし、越後・信濃を後ろに当て、笛吹の峠に陣を取つてぞおはしける。これを聞きて打ち寄る人々には、大江田式部の大輔・上杉民部の大輔・子息兵庫の助・中条入道・子息佐渡の守・田中修理の亮・堀口近江の守・羽河越中の守・荻野遠江守・酒勾左衛門四郎・屋沢八郎・風間信濃の入道・舎弟村岡三郎・堀兵庫の助・蒲屋美濃の守・長尾右衛門・舎弟弾正の忠・仁科兵庫の助・高梨越前守・大田滝口・干屋左衛門の大夫・矢倉三郎・藤崎四郎・瓶尻十郎・五十嵐文四・同じき文五・高橋大五郎・同じき大三郎・友野十郎・繁野八郎・禰津小二郎・舎弟修理の亮・神家の一族三十三人・繁野の一族二十一人、都合その勢二万余騎、先朝第二の宮上野の親王を大将にて、笛吹の峠へ打ち出る。
新田武蔵守(新田義宗。新田義貞の三男)は、将軍(足利尊氏)の運によって兵を引き、石浜(現東京都福生市牛浜?)の合戦に本意を達せず、武蔵国を前になし、越後・信濃を後ろに当て、碓氷峠(現群馬県安中市と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある峠)に陣を取りました。これを聞いて打ち寄る人々には、大江田式部大輔(大江田氏経)・上杉民部大輔(上杉憲顕)・子息兵庫助・中条入道・子息佐渡守・田中修理亮・堀口近江守・羽河越中守・荻野遠江守・酒勾左衛門四郎・屋沢八郎・風間信濃入道・舎弟村岡三郎・堀兵庫助・蒲屋美濃守・長尾右衛門・舎弟弾正忠・仁科兵庫助・高梨越前守・大田滝口・干屋左衛門大夫・矢倉三郎・藤崎四郎・瓶尻十郎・五十嵐文四・同じく文五・高橋大五郎・同じく大三郎・友野十郎・繁野八郎・禰津小二郎・舎弟修理亮・神家の一族三十三人・繁野の一族二十一人、都合その勢二万余騎が、先朝(第九十六代後醍醐天皇)の第二宮上野親王(宗良親王)を大将として、碓氷峠へ打ち出ました。
(続く)