Santa Lab's Blog


2018年 02月 08日 ( 1 )



「梅松論」(持明院統と大覚寺統の分立)

ここに後嵯峨院、寛元年中に崩御の刻み、遺勅にのたまはく、「一の御子後深草院御即位あるべし。降りの後は長講堂領百八十ヶ所を御領として、御子孫永く在位の望みを止めらるべし。次は二の御子亀山院御即位ありて、御治世は累代敢へて断絶あるべからず。子細あるに依りてなり」と、御遺命あり。これに依りて、後深草院御治世、宝治元年より正元元年に至るまでなり。次に亀山院の御子後宇多院御在位、建治元年より弘安十年に至る迄なり。

後嵯峨院崩御以後、三代は御譲りに任せて御治世相違なき所に、後深草の院の御子伏見の院は一の御子の御子孫なるに、御即位ありて正応元年より永仁六年に至る。次に伏見院の御子持明院、正安元年より同じき三年に至る。この二代は関東の計らひよこしまなる沙汰なり。しかる間、二の御子亀山院の御子孫御鬱憤あるに依りて、またそのことわりに任せて後宇多院の御子後二条院御在位あり。乾元元年より徳治二年に至る。またこの君非義あるに依りて、立ち返り後伏見院の御弟萩原新院御在位あり、延慶元年より文保二年に至る。また御理、運に帰す。後宇多院の二の御子後醍醐御在位あり、元応元年より元弘元年に到る。この如く、後嵯峨院の御遺勅相違して、御即位転変せし事、併せて関東の無道なる沙汰に及びしより、「いかでか天命に背かざるべき」と、遠慮ある人々の耳目を驚かさぬはなかりけり。




後嵯峨院(第八十八代天皇)が、寛元年中に崩御の刻み(後嵯峨天皇が崩御したのは、文永九年(1272))、遺勅に申されたのは、「第一皇子である後深草院(第八十九代天皇。【持明院統】)を即位させよ。位を下りた後は長講堂領(王家領荘園群の一)百八十ヶ所を領地として、子孫は永遠に在位の望みを捨てること。次は第二皇子亀山院(後嵯峨天皇の第七皇子。第九十代天皇。【大覚寺統】)に即位させて、治世が累代([代々])万が一にも断絶することがないように。考えあってのことぞ」と、遺命されたんじゃ。この遺勅により、後深草院のご治世は、宝治元年(1247)より正元元年(1259)までじゃった。亀山院の次に亀山院の皇子後宇多院(亀山天皇の第二皇子。第九十一代天皇。【持明院統】)の在位じゃが、建治元年(1275。正しくは、文永十一年(1274))より弘安十年(1287)までじゃった。

後嵯峨院が崩御された後、三代はお譲りに任せて治世に過ちなどなかったが、後深草院の皇子伏見院(後深草天皇の第二皇子。第九十二代天皇。【持明院統】)が第一皇子(後深草天皇)の子孫じゃったが、即位されて正応元年((1288)。弘安十年(1287))より永仁六年(1298)までおられた。次に伏見院の皇子持明院(伏見天皇の第一皇子。第九十三代後伏見天皇。【持明院統】)は、正安元年(1299。永仁六年(1298))より同じ正安三年(1301)までじゃったの。この二代は関東(鎌倉幕府)の計らいによるものじゃったが道理に背くものであったな。こうして、(後嵯峨天皇の)第二皇子亀山院のご子孫は鬱憤されたが、もっともなことじゃったので後宇多院の皇子後二条院(後宇多天皇の第一皇子。第九十四代天皇。【大覚寺統】)が位に即かれた。乾元元年(1302)(正安三年(1301))より徳治二年(1307)(徳治三年(1308))までじゃったな。またこの君に非義([正義に背くこと。道理に外れること])あって(病いにより崩御)、元通り後伏見院の弟萩原新院(伏見天皇の第四皇子。第九十五代花園天皇。【持明院統】)が在位されて、延慶元年(1308)より文保二年(1318)まで位に即いておられた。道理は、運に帰するということじゃな。後宇多院の第二皇子後醍醐(第九十六代天皇。【大覚寺統】)が在位されて、元応元年(1319)(文保二年(1318))より元弘元年(1331)まで位におられた。こうして、後嵯峨院のご遺勅に相違して、即位が転変したのも、すべて関東(鎌倉幕府)が無道の沙汰に及んだものじゃったから、「どうして天命に背かぬことがあろうか」と、遠慮ある人々は耳目を驚かさぬ([耳目を驚かす]=[世間に衝撃を与える])ことはなかったのじゃ。



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by santalab | 2018-02-08 10:27 | 梅松論

    
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