Santa Lab's Blog


カテゴリ:滝口入道( 145 )



「滝口入道」横笛(その1)

西八条殿の揺らぐばかりの喝采を後にして、維盛これもり重景しげかげの罷り出でし後に一個の乙女こそ顕れたれ。これぞこの夜の舞ひの納めと聞こえければ、人々瞳を凝らしてこれを見れば、歳は十六七、精好せいがうの緋の袴踏みしだき、柳の五衣いつつぎぬ打ち重ね、丈にも余る緑の黒髪後ろに揺りかけたる様は、舞子白拍子のしなあるには似で、しとやかにらふ長けて見えにける。一曲舞ひ納む春鶯囀しゆんあうてん、細きは珊瑚を砕く一雨の曲、風に靡きけるささがにの糸軽く、太きは滝津瀬の鳴り渡る千万の声、落ち葉の陰に村雨の響き重し。綾羅りようらの袂豊かにひるがへるは花に休める女蝶めてふの翼か、蓮歩れんぽの節急なるは蜻蛉かげろふの水に点ずるに似たり。折らば落ちん萩の露、拾はば消えん玉篠の、あはれにもまた艶やかなるその姿。見る人呆然として酔えるが如く、布衣ほいに立烏帽子せる若殿ばらは、あはれいづこのが娘ぞ、花薫り月霞む宵の手枕に、君が夢路に入らん人こそ世にも果報なる人なれなど、袖褄そでつま引き合ひて罵り合へるぞ笑止なる。




西八条殿の揺らぐほどの喝采を後にして、維盛(平維盛)・重景(足助重景)が舞台から去った後、一人の乙女が舞台に現れました。これがこの夜の舞いの最後と知らされたので、人々は目を凝らして乙女を見ました、歳は十六七、精好織り([公家や武家に用いられた絹織物])の赤色の袴を履き舞台を強く踏み鳴らしながら、柳色の五衣([平安時代、男子が用いた朝服一揃え])を重ね着て、丈にも余る緑の黒髪が背中でゆらゆら揺れる様は、舞子白拍子の色妖艶とは違って、上品で気品があるように思われました。春鶯囀([雅楽の舞。本来六人または四人舞らしい])を一曲舞い終わって、静けさは珊瑚を砕く雨のよう、風に靡く蜘蛛の糸のように軽く舞い、激しさは滝の津瀬が鳴り渡る千万の声に合わせて、まるで落ち葉の陰に村雨が音を立てるように重く響き渡りました。綾羅([美しい着物])の袂を大きく広げて翻す様は花に休む、女蝶の羽のようで、歩みをすばやく運ぶ様は蜻蛉([トンボ])が水に足跡を残すように軽やかに舞いました。枝を折れば落ちる萩の露、拾おうとすれば消えてしまう玉篠のように、はかなくも美しい姿でした。見る人は呆然として心を奪われました、布衣([狩衣])を着て立烏帽子をかぶった若殿(武士)たちは、あれはどこの誰の娘だ、花香り月もかすむ今宵枕元に、この乙女が夢路に訪れる者は世の果報者だななどと、袖を引き合って言い合っている様は可笑しくありました。


続く


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by santalab | 2014-03-04 18:08 | 滝口入道


「滝口入道」花宴(その4)

饗宴の盛大善美を写せることは言ふも愚かなり、庭前には錦の帳幕を張りて舞台を設け、管弦鼓筝の響きは興を助けて短き夜の深くるを知らず、かねて召し置かれたる白拍子の舞ひもはや終はりし頃ほひ、さと布を裂くが如き四弦一揆の琴の音に連れて、繁弦急管の調べ洋々として響き渡れば、堂上堂下にはかにどよめきて、「あれこそは隠れもなき四位の少将殿よ」、「してこなたなる若人わかうどは」、「あれこそは小松殿の御内に花と歌はれし重景しげかげ殿よ」など、女房どもの罵り合ふ声々に、人々等しく楽屋の方を振り向けば、右の方より薄紅の素袍すはうに右の袖を肩脱ぎ、螺鈿らでんの細太刀に紺地の水の紋の平緒ひらをを下げ、白綾の水干、桜萌黄のに山吹色の下襲したがさね、背にはやなぐひを解きて老懸おいかけを懸け、露のままなる桜かざして立たれたる四位の少将維盛これもり卿。御年やうやく二十二、青糸せいしみぐし、紅玉のはだへ、平門第一の美男とて、かざす桜も色失せて、いづれを花、いづれを人と分けたざりけり。左の方よりは足助あすけの二郎重景とて、小松殿恩顧の侍なるが、維盛卿より若きこと二歳にて、今年まさに二十の若者、上下同じ素絹そけんの水干の下に燃ゆるが如き緋の下袍したぎを見せ、厚塗りの立烏帽子に平塵ひらぢりの細鞘なるを履き、袂豊かに舞ひ出でたる有様、さながら一幅の書図とも見るべかりけり。二人ともにいづれ劣らぬ優美の姿、適怨清和、曲に随って一糸も乱れぬ歩武の節、首尾よく青海波せいがいはをぞ舞ひ納めける。満座の人々感に堪へざるはなく、中宮よりは殊に女房を使ひに引き出物の御衣おんぞを懸けられければ、二人は面目身に余りて罷り出でぬ。後にて口さがなき女房どもは、少将殿こそ深山木みやまぎの山桃、足助殿こそ枯野の小松、いづれ花も実もある武士もののふよなどと言ひ合へりける。知るも知らぬも羨まぬはなきに、父なる卿の目前にこれを見ていかがばかり嬉しく思ひ給ふらんと、人々上座の方を打ち見やれば、入道相国のさも喜ばしげなる笑顔に引き換へて、小松殿は差しうつぶきで人に面を見らるるを物憂げに見え給ふぞいぶかしき。




饗宴の盛大で厳かな様を写そうとすることさえも愚かなことでした。庭前には錦の帳幕を廻らして舞台をしつらえ、管弦鼓筝の響きが興を盛り上げて短い春の夜が深けるのも知らず、あらかじめ呼んでおいた白拍子([平安末期から鎌倉時代にかけて流行した遊女が舞う歌舞])の舞いもすでに終わる頃、どっと布を裂くような四弦琴の連奏に合わせて、激しく速く管([笛])の調べが溢れ出すように響き渡りました、殿上殿下はいっきにどよめいて、「あれは有名な四位中将殿(平維盛これもり。清盛の嫡男重盛しげもりの嫡男、つまり清盛の嫡孫)ですよ」、「でこちらの若者は」、「あれこそは小松殿(重盛)の身内に花と歌われた重景殿(足助重景。架空人物)ですわ」などと、女房たちが口々にささやき合う声々に、人々は同じように楽屋の方を振り向くと、右の方より薄紅の衣の右肩を脱いで、螺鈿の細太刀([鞘に螺鈿=インレイの装飾を施した太刀])に紺地の水紋([波紋の紋様])の平緒([太刀の緒])の結びを垂らして、白綾の水干([狩衣。上級武士が私服として用いた])、桜萌黄([桜色と青黄色])の衣に山吹色の下襲([内着])、背にはやなぐい([矢を入れる道具])を解いて老懸([武官の正装の冠につけて顔の左右を覆う飾り])で飾り、露がついたままの桜をかざして立っていたのが四位少将維盛卿でした。御年二十二歳、青糸のような髪、紅玉の美しい膚、平家一門第一の美男でしたので、かざす桜も色を失って、いずれを花、いずれを人とも区別できないほどでした。左の方からは足助二郎重景という、小松殿が大切にする侍でしたが、維盛卿よりも二歳年下で、今年二十歳の若者でした、上下同じ素絹([生糸])の水干の下には燃えるような赤色の内着を見せて、厚塗りの立烏帽子(烏帽子は黒漆を塗って張りを持たせた)に平塵地([蒔絵で、金の細粉を器物の全面に密にまき散らしたもの])の細鞘の太刀を身に着けて、袂をゆったりと開けて舞うために舞台に出てきましたがその有様は、まさに一幅の絵のようでした。二人ともどちらが劣るとも思えない優美な姿は、適恩清和([あまりに優美で怨めしいほどであり、清らかで調和がとれている様子])、曲に合わせて一糸乱れぬ足の運びで、無事青海波([雅楽の舞])を舞い終えました。満座の者たちは感動しない者はありませんでした、中宮(平徳子)から特別に女房を使いにして引き出物の着物を肩にかけられたので、二人は身に余る名誉を受けて舞台から立ち去りました。後に噂好きな女房たちは、少将殿(維盛)こそ深山の山桃、足助殿は枯野の小松、どちらも花も実もある武士ですなどと言い合いました。二人を知る人知らぬ人も羨ましく思わない者はいませんでしたが、特に父である重盛卿は目前でこれを見てどれほど嬉しく思っていることだろうと、人々が上座の方に目を向けると、入道相国(清盛)は当然のようにうれしそうな笑顔をしていましたがそれに引き換え、小松殿(重盛)は俯いて人に顔を見られるのを憚っているように見えたのが不思議に思えました。


続く


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by santalab | 2014-03-04 08:53 | 滝口入道


「滝口入道」花宴(その3)

見渡せば正面に唐錦のしとねを敷ける上に、沈香じんかう脇息けふそくに身を持たせ、解脱同相の三衣さんえの下に天魔波旬てんまはじゆんの欲情を去り遣らず、一門の栄華を三世の命とせる入道清盛、さても鷹揚に座せるその傍らには、嫡子小松の内大臣重盛しげもり卿、次男中納言宗盛むねもり、三位中将知盛とももりをはじめとして、同族の公卿十余人、殿上三十余人、その他、衛府諸司数十人、平家の一族を挙げて世にはまた人なくぞ見られける。時の帝の中宮、後に建礼門院と申せしは、入道が第四の娘なりしかば、この夜の盛宴に漏れ給はず、かしづける女房雑仕ざうしは皆々晴れの衣装に綺麗を競ひ、六宮りくきゆう粉黛ふんたいいづれ劣らずよそほひを凝らして、花にはあらで得ならぬ匂ひ、そよ吹く風毎に素袍すはうの袖をかすむれば、末座に並み居る若侍たちの乱れもせぬ衣髪をつくろふも可笑し。時はこれ陽春三月の暮れ、青海の簾高く巻き上げて、前に広庭を眺むる大広間、咲きも残らず散りもはじめず、欄干おばしま近く雲かとまが満朶まんだの桜、今を盛りに匂ふ様に、月さへ懸かりて夢の如き円かなる影、おぼろに照り渡りて、満庭の風色ふうしよく碧紗へきしやに包まれたらん如く、一刻千金もただならず。内には遠侍とほざむらひのあなたより、遥か対屋たいやに沿うて楼上楼下を照らせる銀燭の光、錦繍きんしゆう戸帳とちやう竜鬢りゆうびんの板畳に輝きて、さしも広大なる西八条の館に光到らぬ隈もなし。あはれ昔にありきてふ、金谷園裏きんこくゑんりの春の夕べも、よもこれには過ぎじとぞ思はれける。




見渡せば殿正面に唐錦織りの敷物を敷いたその上に、沈香([ジンチョウゲ科の香木])の脇息([肘掛け」)に身を任せ、墨染めの僧衣の下には天魔波旬([欲界最上位の第六天にいる天魔])の欲情を捨て去ることもなく、平家一門の栄華をひたすら願う入道清盛が、とてもくつろいで座り傍らには、嫡子小松内大臣重盛卿(清盛の嫡男、平重盛)、次男中納言宗盛(三男、平宗盛)、三位中将知盛(四男、平知盛)をはじめとして、一族の公卿([大臣・納言・参議および三位以上の者])十余人、殿上人([三位以上の者または四・五位の者で特に許された者])三十余人、その他、衛府([左右の近衛府・衛門府・兵衛府の六衛府の官司])諸司([官司])が数十人、平家一族が揃い平家の外に世には人がいないように思えました。時の帝(高倉天皇)の中宮で、後に建礼門院と呼ばれたのは、入道(清盛)の四女(平徳子)でしたが、この夜の盛宴に漏れることなく、仕える女房雑仕([下級女官])は皆晴れの衣装を競って、六宮([中国で皇后と五人の夫人が住む六つの宮殿])の粉黛([美人])に勝るとも劣らないほどに着飾って、花でなければ匂いようもない香りを、そよ吹く風に素袍([略礼衣])の袖から漂わせて、末座に並み居た若侍たちが乱れもない衣や髪を繕い直すのがこっけいに見えました。時は陽春三月の春の終わり頃、青海波([波模様])の簾を高く巻き上げて、目前に広庭を眺める大広間から見える桜は、咲き残るものなく散り始めたものもなく、欄干近くに雲が降りたかと見間違うばかりの満開の桜でした、今が盛りの桜の香をかぐように、月が空に懸かってまるで夢のような満月の光を、ぼんやりと照らして、満開の庭の景色は碧紗([緑色の薄衣うすぎぬ])に包まれていました、一刻千金(=春宵一刻値千金)にも優る眺めでした。殿の内には遠侍([主屋から遠く離れた警護の武士の詰め所])の向こうから、遥か対屋([寝殿の左右または背面に、寝殿に相対して建てた別棟])に沿って楼上楼下を照らすともしびがかかげられて、錦繍([錦と刺繍を施した織物])のとばり、竜鬢筵([花ござ])の板畳に照り輝いていました、これほどに広い西八条の大殿に光が届かない陰はありませんでした。ああいにしえの昔に催されたと聞く、金谷園裏([高貴な身分の者が開催する豪勢な酒宴])の春の夕べも、この花宴に優ることはないように思えました。


続く


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by santalab | 2014-03-04 08:41 | 滝口入道


「滝口入道」花宴(その2)

驕る平家を盛りの桜に比べてか、散りての後の哀れは思はず、入道相国が花見の宴とて、六十余州の春を一夕いつせきうてなに集めて都西八条の邸宅。「君ならでは人にして人に非ず」とうたはれし、一門の君達、宗との人々は言ふも更なり、甲冑摂ろくの子弟の、賎しくも武門の陰を覆ひに当世の栄華に誇らんずるやからは、今日を晴れにと装ほひて、綺羅星の如く連なりたる有様、燦然さんぜんとしてまばゆきばかり、さしも善美を写せる虹梁鴛瓦こうりやうゑんぐわの石畳も影薄げにぞ見えし。あはれこのほどまでは殿上の交はりをだに嫌はれし人の子、家のやから、今は紫緋紋綾しひもんりよう禁色きんじきみだりにして、をさをさ傍若無人の振る舞ひあるを見ても、眉をひそむる人だに絶えてなく、それさへあるに衣袍の紋色、烏帽子のため様までよろづ六波羅様をまねびて時知り顔なる、世はいよいよ平家の世と思えたり。




栄華を極める平家はまるで花盛りの桜のようでした、花が散った後の悲しみを知ることもないままに、入道相国(平清盛)が花見の宴を催して、六十余州の春をただ一夜都西八条の清盛の邸宅である大殿に集めて饗宴がとり行われたのでした。「平家でなければ人でない」と謳われた(清盛の継室時子=ニ位尼の弟、つまり義弟にあたる平時忠の台詞らしい)、平家一門の子弟、主だった者たちは言うまでもなく、武家摂関家の子弟にいたるまで、また身分の卑しい者までが平家の陰に隠れて当世の栄華を誇ろうと、今日を晴れの日と着飾って、綺羅星([きらきらと光り輝く無数の星])のように集まったその有様は、まばゆいばかりに光り輝き、荘厳で美しい虹梁鴛瓦([寺院建築などに見られる中央部分を虹のように反り返らせた梁の下に敷き詰められた、左右対称の対になっている鴛鴦おしどり瓦])さえ地味に思われました。ああ栄華を極めるまでは殿上の交わりさえも嫌われていた者(清盛の父忠盛のこと)の子や、一族の者たちが、今は紫や赤地の綾衣禁色([天皇・皇族の衣服の色で臣下の着用が禁じられていたもの])を身に纏い、まったく傍若無人の振る舞いでしたが、眉を顰めて非難する者も絶えてなく、その上衣袍([着物と上着])の紋色から、烏帽子のかぶり方まですべて六波羅様([平家一門のしゃれたスタイル])をまねて流行り子の得意顔をしていました。世はますます平家の時代であるように思えたのです。


続く


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by santalab | 2014-03-04 08:31 | 滝口入道


「滝口入道」花宴(その1)

高山樗牛ちよぎゆう


やがて来む寿永の秋の哀れ、治承の春の楽しみに知る由もなく、六年むとせの後に昔の夢を辿りて、直衣なほしの袖を絞りし人々には、今宵の歓会も中々に忘られぬ思寝おもひねの涙なるべし。




やがて来る寿永(安徳天皇の御時ですが、平家都落ちの後、都では後白河院が後鳥羽天皇を立てたので、寿永二年からしばらくの間、二人の天皇が存在しました)の平家滅亡の悲しみを、治承(高倉天皇、安徳天皇の御時)の春を謳歌する平家者者たちが知るはずもなく、六年後(平家が壇ノ浦で源氏に敗れたのは、1185年のことですから、この時は治承三年(1179)ということになります)に昔の栄華を懐かしみながら涙で濡らした直衣の袖を絞ることになる平家の者たちにとって、今宵の歓会は決して忘れることのできない思寝([恋しい人を思いながら眠ること])の涙となりました。


続く


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by santalab | 2014-03-04 08:24 | 滝口入道

    

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