Santa Lab's Blog


カテゴリ:承久記( 268 )



「承久記」一院隠岐の国へ流され給ふ事(その9)

都に、定家さだいへ家隆いへたか有家ありいへ雅経まさつねさしもの歌仙たち、この御歌の有様を伝へ承りて、ただもだへ焦れ泣き悲しみ給へども、罪に恐れて御返事をも申されず。されども従三位家隆いへたか、便宜に付けて、恐れ恐れ御歌の御返事を申されけり。

寝覚めして きかぬを聞きて 悲しきは 荒磯波の 暁の声




都では、定家(藤原定家)・家隆(藤原家隆)・有家(藤原有家)・雅経(飛鳥井雅経)といった錚々たる歌仙([優れた歌人])たちが、鳥羽院の歌の様子を伝え聞いて、ただ悲しみにもだえて泣き悲しみましたが、罪を恐れて返事も返しませんでした。けれども従三位家隆(藤原家隆)は、便宜([よい機会])に合わせて、恐る恐る歌の返事を申されました。

目が覚める度に聞こえないはずの音が聞こえて悲しくなります。それは、後鳥羽院がお聞きになられているであろう、暁の荒磯波の音なのです。


続く
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by santalab | 2014-05-30 08:28 | 承久記


「承久記」一院隠岐の国へ流され給ふ事(その8)

かくて日数重なりければ、八月五日、隠岐の国海部あま郡へぞ着かせ給ふ。これなん御所とて、入れ奉るを御覧ずれば、浅ましげなる苫葺とまぶきの、こもの天井・竹の簀の子なり。自ら障子の絵などに、かかる住まひ描きたるを御覧ぜしより外は、いつか御目にも懸かるべき。ただこれは生を変へたるかと思し召すもかたじけなし。

我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け




こうして日数が重なって、八月五日に、隠岐国の海部郡(現島根県隠岐郡)に着きました。これが御所ですと申して、後鳥羽院が入られるのを見れば、驚くことに苫葺き([むしろ屋根])に、薦([マコモ=イネ科の多年草。を粗く編んだむしろ])の天井・竹の簀の子([簀の子張りの床または縁])でした。後鳥羽院は描かれた障子の絵などに、このような住まいが描かれているのをご覧になったことはありましたが、ほかに目にしたこともありませんでした。まるで生まれ変わったのかと思うほど粗末な御所でした。

わたしこそが、隠岐島の新しい島守ぞ。隠岐の海の激しい波風よ、どうか手荒く吹くな。


続く
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by santalab | 2014-05-29 09:02 | 承久記


「承久記」一院隠岐の国へ流され給ふ事(その7)

「かの保元の昔、新院の御いくさ破れて、讃岐の国へ遷されさせ給ひしも、ここを御通りありけるとこそ聞け。御身の上とは知らざりしものを」と思し召す。「それは王位を論じ位を望み給ふ御事なり。これはされば何事ぞ」とぞ思し召しける。美作みまさか伯耆はうきの中山を越えさせ給ふに、向かひの峰に細道あり。いづくへ通ふ道にや」と問はせ給ふに、「都へ通ふ古き道にて、今は人も通はず」と申しければ、

都人 誰踏みそめて 通ひけむ 向ひの道の なつかしきかな

出雲の国大浦と言ふ所に着かせ給ふ。三尾が崎と言ふ所あり。それより都へ便りありければ、修明門院しゆめいもんゐんに御消息あり。
知るらめや 憂目を三尾の 浜千鳥 しましま絞る 袖のけしきを




「保元の昔(保元の乱(1156))、新院(崇徳院)が軍に敗れて、讃岐国に配流になった時も、明石の浦を通ったと聞いたことがある。まさか我が身のことだとは思わなかったが」と思いました。「崇徳院(第七十五代天皇)は王位について論争し子に帝位を継がせたいと望んでのことだ。だがわたしは何故に」とも思いました。美作国と伯耆国の中山を越えている時、「向こうの山に細道がある。どこへ続く道なのか」と訊ねられましたが、「都へ通じる古道でございます、今は人も通いません」と申せば、

いったいどんな都人が、あの道を踏みしめて通っていたのだろう。なぜかあの道に、心惹かれるのだ。

後鳥羽院は出雲国の大浦(現島根県邑智おおち郡)に着きました。三尾崎という所がありました。後鳥羽院はそこから都への便りを出し、修明門院(藤原重子しげこ。後鳥羽院の后)に文を届けました。
そなたは知らないと思うが、わたしはここ三尾浜の浜千鳥のように、袖をしわが行くほどに絞り泣きながら、流され行く島々の景色を眺めている。


続く
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by santalab | 2014-05-28 07:33 | 承久記


「承久記」一院隠岐の国へ流され給ふ事(その6)

播磨の明石の浦に着かせ給ふ。「ここをばいづくぞ」と御尋ねありければ、「明石の浦」と申しければ、「音に聞く処にこそ」とて、

都をば やみやみにこそ 出でしかど 今日は明石の 浦にきにけり

亀菊殿
月影は さこそ明石の 浦なれど 雲居の秋ぞ なほも恋しき




播磨国の明石の浦(現兵庫県明石市)に着きました。後鳥羽院が「ここはどこじゃ」と訊ねられたので、「明石の浦でございます」と申すと、「噂に聞く所じゃのう」とおっしゃって、

都を訳も分からぬままに出てきたが、今日は明石の浦に着いたのだなあ。

亀菊殿(後鳥羽院の妾。白拍子)は、
月の光の美しさは、さすがに名に聞く明石の浦ですが、それでも雲居([殿上])の秋がなおも恋しく思われるのです。


続く
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by santalab | 2014-05-27 07:31 | 承久記


「承久記」一院隠岐の国へ流され給ふ事(その5)

一院の御供には女房両三はい、亀菊殿、聖一人、医師一人、出羽の前司広房ひろふさ、武蔵の権のかみ清範きよのりとぞ聞えし。去ぬる平家の乱るる世には、後白河の院鳥羽殿に遷らせ給ひしをこそ、世の不思議とは申し習はししに、今は遠き国へ流されさせ給ふ。先代にも超えたる事どもなり。水無瀬殿を過ぎさせ給ふとて、「せめてはここに置かればや」と、思し召さるるもことわりなり。御心の済むとしもなけれども、御涙の隙にかくぞ思し続けらる。

立ちこめて 関とはならで 水無瀬河 霧なほ晴れぬ 行末の空




一院(後鳥羽院)の供には女房が二三人、亀菊殿(後鳥羽院の妾。白拍子)、聖([高徳の僧])が一人、医師一人、出羽前司広房、武蔵権守清範(藤原清範)と言われました。かつて平家が驕った時代には、後白河院(第七十七代天皇)が鳥羽殿(現京都市伏見区鳥羽にあった離宮)に幽閉されて、世の不思議と言われましたが、今は後鳥羽院が遠国に配流となりました。千代をも超えたことでした。水無瀬殿(後鳥羽院の離宮。現大阪府三島郡島本町にあった)を過ぎる時、「せめてここに置いてくれるのなら」と、思われるのも当然のことでした。心が安らぐことはまったくありませんでしたが、涙の切れ間にこう思われるのでした。

霧が立ち込める水無瀬川([大阪府北東部、三島郡島本町を流れ、淀川に合流する川])は、わたしを引き留める関にはならかったことが悲しい。行く末の空にも霧が立ち込めて、まったく先は見えないのに。


続く
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by santalab | 2014-05-26 07:17 | 承久記


「承久記」一院隠岐の国へ流され給ふ事(その4)

同じき十三日、六波羅より時氏ときうぢ時盛ときもり参りて、隠岐の国へ遷し奉るべき由を申しければ、「御出家の上は、流罪まではあらじ」と思し召しけるに、遠き島と聞こし召されて、東西を失はせ給ふぞかたじけなき。摂ろくは近衛殿にて渡らせ給ひけり。「君、防関見しがらみとなりて留めさせ給へ」と、遊ばされける御書の奥に、

墨染の 袖に情けを かけよかし 涙ばかりは 捨てもこそすれ

と遊ばされたりければ、摂政の御威徳も、「君の君にて渡らせ給ふ時の、異なり」とて、嘆き給ひけり。




同じ七月十三日に、六波羅より時氏(北条時氏)・時盛(北条時盛)が参って、隠岐国へ配流することを申し上げると、後鳥羽院は「出家した上は、流罪まではないであろう」と思っていましたので、遠島と聞いて、東西不覚となりましたが畏れ多いことでした。摂ろく([摂政・関白])は近衛殿(現京都市上京区にあった摂関家の重要な邸宅)に移されていました。「君(第八十四代順徳天皇)よ、どうか柵となってわたしを京に留まらせてほしい」と、書いた文の奥書に、

出家して黒染めの僧衣に様を変えた、わたしの袖に情けをかけてほしい。涙は捨ててかまわないから。

と書かれてあったので、摂政をなされた後鳥羽院の威徳([威厳と人徳])は、「君(天皇)の君(上皇)であられた時とは、すっかり変わってしまわれた」と申して、嘆き悲しみました。


続く
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by santalab | 2014-05-25 08:26 | 承久記


「承久記」一院隠岐の国へ流され給ふ事(その3)

修明門院しゆめいもんゐん一つ御車にて、鳥羽殿へ御幸なる。御車を大床の際に差し寄せられたり。一院、簾引かさせ給ひて、御顔ばかり差し出ださせ給ひて、御手をもて「帰らせ給へ」とあふがせ給ふ。両女院御目も暮れ絶え入りさせ給ふもことわりなり。御車の内の御嘆き、申すも中々愚かなり。




七条院(藤原殖子たねこ。後鳥羽院の母)と修明門院(藤原重子しげこ。後鳥羽院の后)は一つの車で、鳥羽殿(現京都市伏見区鳥羽にあった離宮)に出かけました。車を大床([寝殿造り・武家造りの、簀子縁の内側の床])の際まで寄せられました。一院(後鳥羽院)は簾を上げさせて、顔だけを出して、手を振って修明門院に「よくぞ戻った」と合図しました。両女院(七条院と修明門院)は目が暮れ気を失うばかりになるのも当然のことでした。車の中の悲しみは、申すのも愚かなことでした。


続く
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by santalab | 2014-05-24 07:16 | 承久記


「承久記」一院隠岐の国へ流され給ふ事(その2)

御供に大宮の中納言実氏さねうぢ、宰相中将信成のぶなり、左衛門のじよう義茂よしもち、以上三人ぞ参りける。武士前後を囲み、今日を限りの禁闕きんけつの御名残り、思ひやり奉るもかたじけなし。同じき八日御出家あるべき由、六波羅より申し上ぐるに、御髪下させ給ふ。法の御いみな良然りようねんとぞ申しける。太上天皇の玉体、たちまちに変じて、無下の新発意とならせ給ふ。信実のぶざねの朝臣を召して、御形を似絵にせゑに描かせ給ひて、七条の女院へ参らせ給ひけり。女院、御覧じも敢へず御涙を流させ給ひけり。




後鳥羽院の供には大宮中納言実氏(西園寺実氏)、宰相中将信成(藤原信成)、左衛門尉義茂、以上三人が参りました。武士が前後を囲み、今日を限りの禁闕([皇居])の名残りを、思いやられるは畏れ多いことでした。同じ七月八日に出家されるよう、六波羅より申し上げたので、後鳥羽院は髪を切って出家されました。法名を良然と付けられました。太政天皇の玉体([天子または貴人の体])は、たちまち様を変えて、まさしく新発意([出家して間もない者])となられたのでした。信実朝臣(藤原信実)を呼んで、姿を似絵([肖像画])を描かせて、七条院(藤原殖子たねこ。後鳥羽院の母)に届けました。七条院は、見終わらないうちに涙を流しました。


続く
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by santalab | 2014-05-23 07:26 | 承久記


「承久記」一院隠岐の国へ流され給ふ事(その1)

七月六日、泰時やすときの嫡子時氏ときうぢ時房ときふさの嫡子時盛ときもり、数千騎の軍兵ぐんびやうを相具し、院の御所四辻殿に参つて、鳥羽殿に移し奉るべき由申さる。御所中の男女おめき叫び、倒れ迷ふ女房たちを、先様に出だし奉り給ふ。時氏これを見て、「御車の内も怪しく候ふ」とて、弓のはずをもて御簾を掻き上げ奉る。御用意はもつともさる事なれども余りに情けなくぞ思えし。




七月六日、泰時(北条泰時)の嫡子時氏(北条時氏)、時房(北条時房)の嫡子時盛(北条時盛)は、数千騎の軍兵を引き連れ、院御所である四辻殿(一条万里小路までのこうぢにあった御所)に参って、鳥羽殿(現京都市伏見区鳥羽にあった離宮)に移す旨を申し上げました。御所にいた男女は喚き騒ぎ、倒れ惑う女房たちを先に殿から出しました。北条時氏はこれを見て、「車の中が怪しい」と言って、弓の筈([弓の両端])で簾を掻き上げました。用心はもっともなことでしたがあまりにも情けのないことのように思われました。


続く
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by santalab | 2014-05-22 07:05 | 承久記


「承久記」公卿罪科の事(その8)

一条の宰相中将信能のぶよしは、美濃の国遠山にて斬り奉る。同じき十八日、甲斐の宰相中将範茂のりもちは、足柄山の関の東にて出家し、晴河と言ふ浅き河のつつみを堰き止めて、沈め奉らんとす。

思ひきや 苔の下水 せきとめて 月ならぬ身の やどるべきとは

とて自水せらる。六人の公卿の後の嘆き、言ふも中々愚かなり。




一条宰相中将信能(一条信能)は、美濃国の遠山(現長野県飯田市)で斬られました。同じ七月十八日、甲斐宰相中将範茂(藤原範茂)は、足柄山関(神奈川・静岡県境にある足柄峠)の東で出家し、晴河という小さな川の堤([土手])を堰き止めて、入水しようとしました。

思いもしなかったことだが、苔の下を流れる川水を堰き止めて、月でもない我が身を、宿すことになろうとは。

と詠んで自水([身投げ])しました六人の公卿の嘆きは、申すまでもありませんでした。


続く
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by santalab | 2014-05-21 08:19 | 承久記

    

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