Santa Lab's Blog


カテゴリ:承久記( 268 )



「承久記」公卿罪科の事(その7)

佐々木の中納言有雅ありまさの卿は、小笠原具し奉りて、甲斐の国稲積いなづみの庄内小瀬こせ村と言ふ所にて斬らんとす。「二位殿に申したる旨あり。その御返事、今日にあらんずれば、今二時の命を延べ給へ」とのたまひけるを、「ただ斬れ」とて斬りてけり。一時ばかりありて、「有雅の卿斬り奉るな」と、二位殿の御返事あり。宿業力なしとは言ひながら、一時の間を待たずして斬られけるこそ哀れなれ。小笠原も、今二時の命と手を合はせて乞ひ給ふを斬りたるこそ情けなく思ゆれ。三宝の知恵しるべも知り難く、人望にもうたてしとぞ見えし。




佐々木中納言有雅卿(源有雅)は、小笠原(長清ながきよ)に連れられて、甲斐国稲積庄小瀬村(現山梨県甲府市小瀬町)と言う所で斬られようとしていました。源有雅は「二位殿(北条政子)に申し上げたことがあるのだ。返事が、今日にもあるだろうから、あと二時(四時間)斬るのを待ってくれ」と懇願ましたが、「斬ってしまえ」と言って斬られてしまいました。一時(二時間)ばかりあって、「有雅卿を斬ってはなりません」と、二位殿の返事がありました。宿業([現世に応報を招く原因となった前世の善悪の行為])であり仕方のないことでしたが、一時を待たずに斬られたのは哀れなことでした。小笠原(長清)が、今二時命を延べよと手を合わせて懇願した長清を斬ったことも情けのないものでした。三宝([仏・法・僧])の知恵にも暗く、人望もないように思われました。


続く
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by santalab | 2014-05-20 08:00 | 承久記


「承久記」公卿罪科の事(その6)

同じき十日、中御門の入道前の中納言宗行むねゆきの卿は、菊川にて、「昔南陽県の菊水の下流を汲みよはひを延び、今は東海道の菊川の西岸に宿り命を失ふ」とぞ宿の柱に書き付け給ふ。同じき十三日、駿河の国浮島が原にて、

今日過ぐる 身は浮島が 原にてぞ 露の命を きり定めぬる

同じき十四日のたつの刻に、相沢と言ふ処にて、つひに斬られ給ひぬ。




同じ七月十日、中御門入道前中納言宗行卿(藤原宗行)は、菊川(現静岡県島田市)で、「昔は南陽県(河南省南陽)の菊水(不老長生の霊泉)の水を汲んで永らえたというが、今は東海道の菊川の西岸で命を失うか」と宿の柱に書き付けました。同じ七月十三日、駿河国浮島が原(静岡県東部のの田子ノ浦沿いの低湿地)で、

今日を過ぎれば、我が身はこの浮島が原で、はかない命を終えることだろう。

同じ七月十四日の辰の刻([午前八時頃])に、相沢(神奈川県横浜市瀬谷せや区相沢)という所で、終に斬られました。


続く
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by santalab | 2014-05-19 09:08 | 承久記


「承久記」公卿罪科の事(その5)

按察使あぜちの大納言光親みつちかの卿これを聞き給ひて、人して御悦び申されたりければ、忠信ただのぶの卿、「これも夢やらんとこそ思え候へ」と、返事し給ふもことわりなり。さるほどに八月二日越後の国へ流され給ひぬ。




按察使大納言光親卿(葉室光親)はこれを聞いて、人を遣わして命が助かったことを伝えると、忠信卿(坊門忠信)は、「まるで夢のように思えます」と、返事するのは当然のことでした。やがて八月二日に越後国へ配流されました。


続く
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by santalab | 2014-05-18 10:24 | 承久記


「承久記」公卿罪科の事(その4)

「我右大臣に後れて、かの菩提をとぶらふよりほか他事なし光季みつすゑが討たれしあしたより、宇治の落つる夕べまで、女の心のうたてさは、昔のよしみ心にかかり、兄弟をも知らず。君の傾ぶかせ給ふをも忘れて、三代将軍の跡の亡びん事を悲しみて、『南無八幡大菩薩守らせ給へ』と、心の内に祈りて候ひし。この事、忠信ただのぶの卿を助けんとて偽り申し候はば、大菩薩の御慮も恥かしかるべし。数ならぬ身の祈りにいらへて、かかるべしとは思はねども、心ざしを申すばかりなり。しかるに慈悲心には、打ち絶え知らぬ人をも助け哀れむは習ひなり。如何にいはんやまさしき兄を助けざるべき。罪の深さはさこそ候ふらめども、これさしながら我に許すと思し召すべからず。故右大臣殿に許し奉ると思ひなして、忠信の卿の命を助けさせ給へ」と、権大夫殿・二位殿へ仰せられたりければ、「許し奉れ」とて御許し文ありけるに、八月一日遠江とほたふみの国橋本にて逢ひたりければ、預かりの武士千葉介胤綱たねつな、この二位殿・義時よしときの状を見て、許し上せ奉る。




「わたしは右大臣(源実朝。三代将軍)に先立たれて、右大臣の菩提([死後の冥福])を弔うばかりです。光季(伊賀光季)が討たれた朝より、宇治で大勢の者たちが討たれた夕べまで、女の身であることがつらく、昔の縁ばかりが気になって、兄弟のことを思い出すこともありません。君(後鳥羽院)が勢いを失われたことも忘れ、ただ三代将軍(実朝)の跡継ぎが途絶えたことだけを悲しみ、『南無八幡大菩薩よ源氏をお守りくださいませ』と、心の内で祈っております。これは、忠信卿(坊門忠信)を助けようと偽り申すつもりはありません、八幡大菩薩の慮りに恥じることになりますので。数ならぬわたくしの祈りが通じて、願いが叶うとも思いませんが、ただ我が思いばかりを祈っているのです。二位殿(北条政子)の慈悲心は、すべて見知らぬ人も助け哀れむと聞いております。どうして兄(忠信)をお助けにならないことがありましょう。罪はさぞや深いことでしょうが、これをわたくしに許すと思わないでください。故右大臣殿(実朝)に許されるとお思いになられて、忠信卿の命をお助けくださいませ」と、権大夫殿(北条義時。北条政子の弟)・二位殿(北条政子)に届けると、「許しましょう」と許し文([赦免状])を出されました、八月一日遠江国の橋本(現静岡県湖西市)で落ち合って、預かり([預かり人]=[身柄を引き受けて監視や世話をする者])の武士千葉介胤綱(千葉胤綱)は、、この二位殿・義時の状を見て、忠信を許し京に上らせました。


続く
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by santalab | 2014-05-17 09:27 | 承久記


「承久記」公卿罪科の事(その3)

そもそも八条の尼御台所と申せしは、故鎌倉の右大臣の後室にておはしき。坊門の大納言忠信ただのぶの卿の御妹なりしかば、この謀反の衆に刈り入れられて、関東へ下り給ふを知りて、かねて鎌倉へ御使ひを奉り給ふ。




そもそも八条尼御台所と申すお方は、故鎌倉右大臣(源実朝さねとも。鎌倉幕府第三代将軍)の後室でした(坊門信子のぶこ)。坊門大納言忠信卿の妹でしたので、この謀反(承久の乱)の首謀者の一人として、関東へ下ることを知り、鎌倉へ使いを送りました。


続く


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by santalab | 2014-05-16 07:47 | 承久記


「承久記」公卿罪科の事(その2)

御注文に任せて、皆々六波羅へ搦め出だされ給ふ人々には、坊門の大納言忠信ただのぶ、預かり千葉介胤綱たねつな按察使あぜちの大納言光親みつちか、預かり武田の五郎信光のぶみつ。中御門の中納言宗行むねゆき、預かり小山をやまの左衛門じよう朝政ともまさ。佐々木の中納言有雅ありまさ、預かり小笠原の次郎長清ながきよ。甲斐の宰相中将範茂のりもち、預かり式部じよう朝時ともとき。一条の次郎宰相中将信能のぶよし、預かり遠山の左衛門尉景朝かげとも。各々礼儀の公卿を辞して、板東武将の家に渡り給ふ。




注文(連名書)に従い、六波羅へ捕え連行された者たちは、坊門大納言忠信、預かり([預かり人]=[身柄を引き受けて監視や世話をする者])は千葉介胤綱(千葉胤綱)。按察使大納言光親(葉室光親)、預かりは武田五郎信光。中御門中納言宗行(藤原宗行)、預かりは小山左衛門尉朝政(小山朝政)。佐々木中納言有雅(佐々木有雅)、預かりは小笠原次郎長清(小笠原長清)。甲斐宰相中将範茂(藤原範茂)、預かりは式部丞朝時(北条朝時)。一条次郎宰相中将信能(一条信能)、預かりは遠山の左衛門尉景朝(遠山景朝)。各々礼儀([作法])通り公卿を辞して、坂東武将の宿所に移りました。


続く


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by santalab | 2014-05-15 08:02 | 承久記


「承久記」公卿罪科の事(その1)

さるほどに、去んぬる二十四日、武蔵のかみしづかに院参して、「謀反を進め申され候ひつらん張本の雲客うんかくを召し給はらん」と申されければ、院、急ぎ交名けうみやうを記し出ださせましましけるぞ浅ましき。




さるほど、去る六月二十四日に、武蔵守(北条泰時やすとき)が忍んで院参し、「謀反を勧めた張本([悪事のもととなった者])の雲客([殿上人])を捕えたいのです」と申すと、後鳥羽院は、急ぎ交名([多くの人の名を書き連ねた文書])を記し出されましたが嘆かわしいことでした。


続く


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by santalab | 2014-05-14 07:52 | 承久記


「承久記」京都飛脚の人々評定の事(その4)

義時よしとき、「この儀一分も相違なし。この儀に同ず」と仰せければ、大名どもも「然るべし」とぞ申しける。やがてこの御返事をこそ書き、一ひき相添へて、翌日京へ早馬を立てられけり。さる程に巴の大将殿に、六波羅よりこの由申されたりければ、「我まさに将軍の外祖にあらず。義時が親昵しんじつにあらざれども、正路しやうろを守りて、君を諫め申すに依つて、憂き目を見し故なり。これも夢なり。しかしながら山王に申したりし故なり」とて、大将公経きんつね、日吉をぞ仰ぎ奉らる。




義時(北条義時)も、「わたしもまったく同意見だ。大膳大夫入道(大江広元ひろもと)の意見に従おう」と申したので、大名たちも「よろしいでしょう」と言いました。すぐにこの返事を書いて、一疋(二反。早馬への褒美)を添えて、翌日京へ早馬を立てました。すぐに巴大将殿(西園寺公経きんつね)に、六波羅よりこれを申し上げると、「わたしは将軍の外祖([母方の祖父])ではない。また義時とは昵懇の間柄でもないが、正路([人のふみ行うべき正しい道理])を守り、君(後鳥羽院)を諌め申し上げたので、悲しい目を見たこと(幽閉された)によるものか。まるで夢のようだ。きっと山王(現滋賀県大津市にある日吉大社)に祈り申し上げたからに違いない」と申して、大将公経(西園寺公経)は、日吉大社を仰ぎ見ました。


続く


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by santalab | 2014-05-13 06:57 | 承久記


「承久記」京都飛脚の人々評定の事(その3)

評定あるべしとて、大名ども皆参りけり。一番のくぢは大膳の大夫入道取りたりければ、申しけるは、「院々宮々をば遠国へ流し奉るべし。月卿雲客げつけいうんかくをば板東へ召し下すべし」と披露して、「路にて皆失はるべし。京都のまつりごとは、巴の大将殿御沙汰たるべし。摂ろくをば近衛殿へ参らせらるべしと存じ候ふ」と意見を致す。




評定([皆で相談して決めること])すべしと、大名たちが皆集まりました。一番くじを大膳大夫入道(大江広元ひろもと)が引いて、申すには、「院々宮々は遠国へ配流すべきです。月卿雲客([公卿と殿上人])は坂東(関東)へ下らせましょう」と申して、「途中で皆殺すのです。京都の政は、巴大将殿(西園寺公経きんつね)におまかせすればよろしい。摂ろく([摂政・関白])を近衛殿に参らせるべきです」と意見を申しました。


続く


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by santalab | 2014-05-12 07:50 | 承久記


「承久記」京都飛脚の人々評定の事(その2)

早馬関東に着きたりければ、権大夫殿・二位殿・その外大・小名面々に走り出で、「いくさは如何に。御悦びか何とかある」と、口々に問はれけり。「軍は御勝利候ふ。三浦の平九郎判官、山田の次郎、能登のかみ秀康ひでやす以下皆斬られぬ。御文候ふ」とて大きなる巻物差し上げたれば、大膳の大夫入道取り上げて、一同に「あつ」とぞ申されける。中にも二位殿、余りの事に涙を流し、先づ若宮の大菩薩を伏し拝み参らせて、やがて若宮へ参らせ給ひけり。それより三代将軍の御墓に参らせ給ひて、御悦び申しありければ、大名・小名馳せ集つて御悦びども申し合はる。その中にも子討たれ、親討たれぬと聞く人、悦びに付け嘆きに付けて、関東はさざめきののしり合へりけり。




早馬が関東(鎌倉)に着くと、権大夫殿(北条義時よしとき。北条政子の弟)・二位殿(北条政子)・そのほか大・小名が走り出て、「軍はどうなった。悦び事とかはあるか」と、口々に訊ねました。「軍は勝利いたしました。三浦平九郎判官(三浦胤義たねよし)、山田次郎(山田重忠しげただ)、能登守秀康(藤原秀康)以下の院方の者たちは皆斬られました。文がございます」と答えて大きな巻物を差し上げると、大膳大夫入道(大江広元ひろもと)が取り上げて、一同に「あっ」と声を上げました。中でも二位殿は、あまりのうれしさに涙を流し、まず鶴岡八幡宮若宮の大菩薩を伏し拝み、やがて若宮に参られました。そこから三代将軍(源実朝さねとも)の墓に参って、軍に勝ったことを報告すると、大名・小名も急ぎ集まってよろこび合いました。その中にも子が討たれ、親が討たれたと聞く者たちは、よろこぶにしろ悲しむにしろ、関東は騒ぎとなりました。


続く


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by santalab | 2014-05-11 07:49 | 承久記

    

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