桃井は八幡の勢の攻め寄せんずるほどを待つて、態と事を延ばさんとす。互ひに勇気を励ますほどに、あるひは五騎十騎馬を懸け据ゑ懸け廻し、駆け引き自在に当たらんと、馬を乗り浮かぶるもあり。あるひは母衣袋より母衣取り出だして、ここを先途の戦と思へる気色顕はれて、最後と出で立つ人もあり。斯かる処に、桃井が扇一揆の中より、長七尺許りなる男の、髭黒に血眼なるが、火威の鎧に五枚兜の緒を縮め、鍬形の間に、紅の扇の月日出したるを不残開て夕陽に耀かし、樫の木の棒の一丈余りに見へたるを、八角に削つて両方に石突き入れ、右の小脇に引き側めて、白瓦毛なる馬の太く逞しきに、白泡噛ませて、ただ一騎河原面に進み出でて、高声に申しけるは、「戦場に臨む人毎に、討ち死にを不志云ふ者なし。然れども今日の合戦には、某殊更死を軽んじて、日来の広言をげにもと人に云はれんと存ずるなり。その名人に知らるべき身にても候はぬ間、余りに事々しき様に候へども、名字を申すにて候ふなり。これは清和源氏の後胤に、秋山新蔵人光政と申す者候ふ。出王氏雖不遠、已に武略の家に生まれて、数代ただ弓箭を把つて、名を高くせん事を存ぜし間、幼稚の昔より長年の今に至るまで、兵法を哢び嗜む事隙なし。ただし黄石公が子房に授けし所は、天下の為にして、匹夫の勇に非ざれば、我未だ学ばず、鞍馬の奥僧正が谷にて愛宕・高雄の天狗どもが、九郎判官義経に授けし所の兵法に於いては、光政これを不残伝へ得たる処なり。仁木・細河・高家の御中に、我と思はん人々名乗つてこれへ御出で候へ。声花やかなる打ち物して見物の衆の睡り醒まさん」と呼ばはつて、勢ひ当たりを撥うて西頭に馬をぞ控へたる。
桃井(桃井直常)は八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)の勢が攻め寄せるのを待って、わざと軍を延引しようとしました。互いに勇気を励まして、あるいは五騎十騎馬を駆け据え駆け廻し、駆け引き自在に当たろうと、馬を乗り浮かぶ([落ち着かない])者もいました。あるいは母衣袋より母衣([矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもの])を取り出して、ここを先途([勝敗・運命などの大事な分かれ目])の戦と思う気色を現じて、最後と出で立つ者もありました。そこに、桃井(直常)の扇一揆の中より、丈七尺ばかりで、髭黒([黒々と髭が生えていること])に血眼の男が、緋威の鎧に五枚兜の緒を締め、鍬形([兜の前立])の間に、月日を描いた紅の扇を大きく開いて夕陽に輝かせ、一丈に余る樫の木の棒を、八角に削って両端に石突き([杖・傘・ ピッケルなどの、地面を突く部分。また、そこにはめた金具])を入れ、右の小脇に挟んで、白瓦毛の馬の太くたくましきに、白泡を噛ませて、ただ一騎河原面に進み出て、高声に申すには、「戦場に臨む人毎に、討ち死にを覚悟せぬ者はおるまい。けれども今日の合戦に、某は殊更死を軽んじて、日来の広言([あたりを憚らず大げさなことや偉そうなことを言うこと])を確かにと人に言われたいと思うておるのだ。名は人に知られる身でもない、あまりに仰々しいことではあるが、名字を申しておこう。我は清和源氏の後胤([子孫])、秋山新蔵人光政(秋山光政)と申す者よ。出自王氏に遠からずといえども、武略の家に生まれて、数代ただ弓箭([弓矢])を取って、高名を上げようと思い、幼稚の昔より長年の今に至るまで、隙なく兵法を学ぶ。ただし黄石公(秦代中国の隠士。張良に兵書を与えたという)が子房(張良)に授けたところは、天下の、匹夫の勇([深く考えず、ただ血気にはやるだけの勇気])にあらざれば、学んだことはない。鞍馬の奥僧正谷(現京都市左京区。牛若丸が武術を修行したと伝えられる地)で愛宕(現京都市右京区)・高雄(現京都市右京区)の天狗どもが、九郎判官義経(源義経)に授けた兵法は、この光政が残さず体得しておる。仁木・細川・高家の中に、我と思う人々は名乗って出て来られよ。声華やかに打ち合って見物の衆の睡りを醒ましてやろう」と叫びました、その勢いは当たりを払い西頭に馬を控えました。
(続く)