Santa Lab's Blog


「平家物語」祇園精舎(その2)

遠く異朝をとぶらへば、しん趙高てうかう、漢の王莽わうまうりようの朱、唐の祿山、これらは皆、旧主きうしう先皇せんわうまつりごとにも従はず、楽しみを極め、いさめをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間のうれふる所を知らざりしかば、久しからずして、ばうじにし者どもなり。




遠く異朝(中国)をたずねれば、秦(B.C.778~B.C.206)の趙高(趙高が擁立した子嬰しえい帝によって殺された)、漢(ここでは、前漢(B.C.20~8)と後漢(25~220)の間、しん(8~23)のこと)の王莽(前漢最後の皇太子孺子嬰じゆしえいから帝位を簒奪だつし、新を建国したが、後漢の初代皇帝劉秀りうしう光武帝くわうぶていによって滅ぼされた)、梁(後梁(907~923)のこと)の朱(子、兄弟で帝位を争って殺しあったあげく、最後は、後唐の初代皇帝荘宗さうさう李存勗りそんきよくによって滅ぼされた)、唐の祿山(安史あんしの乱(755~763)のこと。唐の節度使、つまり、地方組織であった安禄山あんろくざんたちが唐に対して起こした反乱、最後は子に殺される)、これらの者たちは皆、前代の君主、先帝のまつりごとにも従わず、快楽を極め、諫言に深く思い寄せることなく、天下が乱れることの意味を知らずして、民衆が嘆き悲しむことを理解できなかったので、時を経ることもなく、滅びてしまった者たちなのです。


続く


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# by santalab | 2013-07-15 18:56 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」祇園精舎(その1)

祇園精舎ぎをんしやうじやの鐘の声、諸行しよぎやう無常むじやうの響きあり。娑羅さら双樹さうじゆの花の色、盛者じやうしや必衰ひつすいことわりあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。




祇園精舎(須達しゆだつ長者が、舎衛城しやゑじやうという都市の南にあった祇陀ぎだ太子所有の林を買い取り、釈迦のために建てた寺)の鐘の音は、「世の中の物は一切、永久不変ではない」(永久不変は、生身しやうじん嘆願たんぐわんではありますが)をほのめかすように響いています。娑羅双樹(釈迦が涅槃ねはんに入った時、四方にあった四双八本の沙羅樹のこと。入滅の際に非時ときじく、つまり、季節外の花を咲かせ、たちまち枯れて、白色に変わったそうです)の花の色のようにあっけないもので、盛者必衰(栄華を極めてもいつかは衰える)が条理であると知らせているのです。勢いのある人であってもそれが永遠に続くわけではありません、ただ単にあっけなく消えるはかない春の夜の夢のようなものなのです。強い者であっても最後は滅びます、ただ風の前の塵と同じです。


(祇園精舎には鐘がなかったので日本から寄贈されたはずです。「平家物語」の時代には、当然、この鐘はありませんから、「祇園精舎の鐘」=「祇園社、今の八坂神社、京都市東山区にあります。の鐘」と考えてよいのかもしれません。祇園社、今の八坂神社には、祇園精舎の守護神である牛頭ごづ天王てんわうが祭られていて、祇園精舎と無関係ではありませんし、名の由来でもあります。と思っていたら、実は祇園精舎には鐘があったらしいという話です。が、ガラス製で、ちょうど、風鈴の「チリンチリン」的なものだったらしいのです。さすがに、これでは、「諸行無情」感は出ないと思いますが「夏の風鈴」もまた風流でどこか思わせぶりなのかもしれません。実は「諸行無情」ってそんなものかもしれませんね。)


続く


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# by santalab | 2013-07-15 11:06 | 平家物語 | Comments(0)


「義経記」牛若貴船詣の事(その3)

和泉いづみまう法師ほふしの御介錯しけるが、この御有様只事にはあらじと思ひて、目を放さず、ある夜御跡を慕ひて隠れてくさむらの蔭に忍びて見ければ、斯様かやうに振舞ひ給ふあひだ、急ぎ鞍馬にかへりて、東光坊とうくわうばうにこの由まうしければ、阿闍梨おほきに驚き、良智坊れうちばうの阿闍梨に告げ、寺に触れて、「牛若殿の御髪みぐし剃り奉れ」とぞ申されける。良智坊この事を聞き給ひて、「をさなき人もやうにこそよれ。容顔世に越えておはすれば、今年の受戒いたはしくこそおはすれ。明年みやうねんの春の頃剃りまゐらさせ給へ」と申しければ、「たれも御名残りはさこそ思ひさうらへども、斯様かやうに御心不用になりて御渡り候へば、我が為、御身の為しかるべからず候ふ。ただ剃り奉れ」とのたまひければ、牛若殿何ともあれ、寄りて剃らんとする者をば、突かんずるものをと、刀の柄に手を掛けておはしましければ、左右さうなく寄りて剃るべしとも見えず。覚日坊かくにちばうの律師まうされけるは、「これは諸人の寄合所よりあひどころにてしづかならぬあひだ、学問も御心に入らずさうらへば、それがしが所はかたはらにて候へば、御心静にも御学問候へかし」とまうされければ、東光坊とうくわうばうもさすがにいたはしく思はれけん、さらばとて覚日坊へ入れ奉り給ひけり、御名をば変へられて遮那王殿しやなわうどのとぞ申しける。それより後には貴船きぶねまうでもとどまりぬ。日々に多聞に入堂にふだうして、謀反の事をぞ祈られける。




和泉と言う法師が義経(源義経)の介錯([付き添って世話をすること])をしていましたが、この様子は只事ではないと思って、目を離さず、ある夜後を付けて隠れて草むらの陰から見ると、早業の訓練をしていたので、急ぎ鞍馬に帰って、東光坊(蓮忍れんにん)にこれを話すと、東光坊阿闍梨はたいそう驚いて、良智坊阿闍梨に告げて、寺に知らせて、「牛若殿の髪を剃るように」と申しました。良智坊はこれを聞いて、「幼い者でも見た目があります。牛若殿は顔かたち人に優れております、今年受戒([仏の定めた戒律を受けること])を受けさせるのはかわいそうです。来年の春頃に髪を剃らせてはどうですか」と申すと、東光坊は「誰にでも名残りはそれこそあるだろうが、今のように身勝手なことをされては、我が身、御身にとってよくなかろう。すぐに髪を剃りなさい」と申しました、牛若殿はたとえ誰だろうが、近寄って髪を剃ろうとする者を、突き刺そうと刀の柄に手を掛けていたので、難なく近づいて髪を剃ることはできませんでした。覚日坊律師が申すには、「ここは皆の寄合所([集会所])であるから静かでなければ、学問も身に入らないはずです、わたしの僧坊ははずれにありますから、牛若殿も心静かに学問なさるのではないですか」と申したので、東光坊もさすがにかわいそうに思ったのか、ならばと牛若殿を覚日坊へ移して、名を変えて遮那王殿と呼ぶようになりました。それより後は遮那王は貴船に詣でることはなくなりました。毎日多聞(多聞堂。鞍馬寺の山門近くにある堂)に入り、謀反の事を祈りました。


続く


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# by santalab | 2013-07-15 08:15 | 義経記 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その1)

かくて、やうやう中納言重く悩み給へば、大将殿、いとほしく思し嘆きて、修法など数多あまたせさせ給へば、中納言「何かは。今は思ふことも侍らねば、命惜しくも侍らず。わづらはしく何かは折りせさせ給ふ」と申し給ふ。弱るやう日なり給へば、「なほ死ぬべきなめり。今しばし生きてあらばやと思ふは、我が年頃沈みて、昨日今日の若人どもに多く越えられて、なり劣りつるになむ、恥に思ひける。我が君のかばかり顧み給ふ御世に、命だにあらば、なりぬと思ひぬるに、また、かく死ぬれば、我が身の大納言になるまじき報いにてこそありけれど、これのみぞ、飽かず思ゆること。さては、老い果ての面立おもだたしさは、おのれに勝る人、世にあらじ」とのたまふを、大将聞き給ひて、あはれに思ゆること限りなし。女君「やがて大納言をかな。一人なし奉りて、飽かむことなしと思はせ奉らむ」とのたまふを聞き給ひて、げに、させばや、と思せど、かずよりほかの大納言になさむことは難し。人の、はた取るべきにあらず、我がを許さむの御心付きて、父大殿おとどの御許にまうで給ひて、「かくなむ思ひ給へるを、幼き者ども多く侍れど、それが徳を見すべく、行く末あるべきことにもあらぬ代りには、このことをなむ、そ侍らむと思ひ侍る。御気色、よろしう定めさせ給へ」と申させ給ふ。「何かは。さ思はむを、早うるべきやうに奏を奉らせよ。大納言はなくても、悪しくもあらじ」と、我が心なる世なればと思してのたまへば、限りなく喜び給ひて、申し給ひて、奏し奉らせ給ひて、中納言、大納言になり給ふ宣旨下し給ひつ。これを聞きて、大納言、わづらふ心地に、泣く泣く喜び給ふ様、親にかく喜ばれ給ふに、功徳ならむと見ゆ。




やがて、中納言の病いは重くなり、左大将殿は、気の毒に思って悲しみ、修法([密教で行う加持祈祷の法])など多く行わせました、中納言は「どうしてそれほどにしてくれるのですか。今は思い残すことはなく、命など惜しくありません。面倒なことだろうにどうして祈祷などなさるのでしょうか」と申しました。中納言は日に日に弱って、「そろそろお迎えが来る頃だ。今しばらく生きていたいと思うのは、わしは年老いてから昇進もなく、昨日今日出仕したような若者に多く位階([位と職])を越えられて、下位に甘んじていることを、恥と思っていたのじゃ。我が君(左大将)が目をかけてくれたのじゃから、命さえ続けば、いつか大納言になれると思っておったんじゃ、じゃが、このまま死んで行くのも、大納言にはなれぬ我が身の罪の報いであろうが、こればかりを、ずっと思い続けておったんじゃ。もし大納言になれたなら、老いぼれた我が身にとってこの上なく名誉なこと、わしに勝る者など、世の中にはいないと思っておるのじゃ」と申すのを、左大将が聞いて、たいそう気の毒に思ったのでした。落窪の君が「いずれは大納言をと願っていたのですね。なんとか大納言にして差し上げて、長年の願いを叶えてあげたい」と言ったのを聞いて、左大将は、なんとかして、と思いましたが、決められた人数(大納言は十人。定員外としてごん大納言)以外に大納言になすことは難しいことでした。他人の、位を取り上げることもできず、左大将は自身に許された位を譲ろうと思って、父の大殿(左大臣)の許を訪ねて、「わたしの位を中納言殿に譲りたいと思っています、わたしには幼い子どもたちがたくさんいますが、子どもたちに徳([神仏などの加護])を授けたいと思うのです、子どもたちの行く末を最後まで見届けることはできないでしょう、ですから、中納言殿に大納言を位を譲ろうと思います。どうでしょうか、父の思うままにお決めください」と申しました。父(左大臣)は「何も問題ない。お前がそう思うのならば、一刻も早くそのことを帝に奏上しなさい。大納言の位を失ったくらいで、大したことはなかろう」と、左大臣の思うがままの世であればと思って申すと、左大将はとてもよろこんで、朝廷に『大納言の位を譲る由』を申して、帝に奏上し、帝は中納言を、大納言に就ける宣旨([天皇の命令])を下されました。これを聞いて、中納言は、病いに煩いながらも、泣いてよろこびました、落窪の君の父親にこれほどよろこばれて、左大将はきっと功徳([ご利益])になることだろうと思いました。


続く


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# by santalab | 2013-07-15 08:07 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」首渡(その7)

さてをさなき人々の御元へは、「つれづれをば何としてかは慰むらん。やがてこれへ迎へ取らうずるぞ」と、言葉も変はらず書いて上せらる。使ひ都へ上り、北の方に御文取り出だいて奉る。これを開けて見給ひて、いとど思ひや増さられけん、引きかづいてぞ臥し給ふ。かくて四五日も過ぎしかば、使ひ、「御返事ぺんじたまはつて、かへまゐさふらはん」とまうしければ、北の方泣く泣く御返事書き給ふ。若君姫君も、面々に筆を染めて、「さて父御前への御返事をば、何と書き申すべきやらん」と問ひ給へば、北の方、「ただともかくも、和御前わごぜたちが思はうずるやうを申すべし」とぞのたまひける。「などや今までは迎へさせ給ひ候はぬぞ。あまりに御こひしう思ひ参らせ候ふに、く迎へさせ給へ」と、同じ言葉にぞ書かれたる。使ひ御文賜つて、屋島へ帰り参つて、三位中将殿に、御返事取り出だいて奉る。先づ幼き人々の御返事を見給ひて、いとどせん方なげにぞ見えられける。「そもそもこれより穢土ゑどいとふに勇みなし。閻浮えんぶ愛執あいしふの綱強ければ、浄土じやうどを願はんも物憂し。ただこれより山伝ひに都へ上り、恋しき者どもをも、今一度見もし見えて後、自害をせんにはしかじ」とぞ、泣く泣く語り給ひける。




さて幼い子どもたちへの許には、「退屈だろうが何をして遊んでいるのだろうか。すぐにお前たちを迎えにいくからな」と、言葉を変えずに書いて使いに持たせました。使いは都に上り、北の方(妻)に文を取り出して差し出しました。北の方は文を開けて見て、さらに思いがつのったのでしょうか、着物を引きかぶって臥せってしまいました。こうして四五日過ぎて、使いの者が、「返事をいただいて、維盛の許に帰ろうと思います」と申せば、北の方は泣きながら返事を書きました。若君姫君も、それぞれ筆を持って、「父への返事に、何を書けばよいのでしょう」と聞いたので、北の方は、「どうにでも、お前たちが思った通りに書きなさい」と答えました。子どもたちは、「どうして今まで迎えにきてくれなかったのですか。あまりにも恋しくて仕方ありません、早く迎えにきてください」と、二人とも同じ言葉を書きました。使いは文を預かって、屋島に持ち帰って、三位中将殿(維盛)に、返事を取り出して差し出しました。維盛はまず幼い子どもたちの返事を見て、ますますどうしてよいのかわからない様子でした。「そもそも今から穢土([娑婆])を嫌う勇気もない。閻浮([この世])愛執([愛するものに心がとらわれて離れられないこと])の綱が強ければ、浄土([極楽浄土])を願ってもつらくなるだけだ。今から山伝いに都に上り、恋しい者たち(妻子)を、もう一度見た後、自害するしかないのだろうか」と、泣く泣く使者に話しました。


続く


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# by santalab | 2013-07-15 08:00 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」首渡(その6)

三位中将も、通ふ心なれば、さても都には、いかにこころもとなう思ふらん。たとひ首どもの中にこそなくとも、矢に当たつても死に、みづに溺れて失せぬらん、今までこの世にあるものとは、よも思ひ給はじ。露の命の消えやらで、いまだ憂き世に永らへたるを、知らせ奉らんとて、使ひをいちにん仕立てて、上せられけるが、つの文をぞ書かれける。先づ北の方への御文には、「都にはかたき満ち満ちて、御身一つの置き所だにあらじに、をさなき者ども引き具して、いかに悲しうおはすらん。これへ迎へまゐらせて、一つ所にていかにもならばやとは思へども、我が身こそあらめ、御ためいたはしくて」なんど、細々と書いて、
奥には一首いつしゆの歌ぞありける。

いづくとも 知らぬあふ瀬の 藻塩草 かきおく跡を 形見ともみよ




三位中将(平維盛これもり)も、妻子の元に心を通わせて、きっと都では、心細く思っていることだろう。たとえ首の中にわたしがいないからといって、矢に当たって死んだかもしれない、水に溺れて亡くなったのかもしれないと、今まで生きていようとは、まさか思っていないだろう。露のようにはかない命をなんとか保って、まだ憂き世に生きていることを、妻子に知らせようと、使いを立てて、都に上らせましたが、三つの文を書いて持たせました。まず北の方(妻)への文には、「都には敵(源氏)が満ち満ちているので、身の置き処もないと思う、幼い子どもたちを連れて、どれほど悲しく思っていることだろうか。迎えを遣って、わたしと同じ所でどうにでもなればとも思うが、我が身はともかく、むしろ不憫に思うので」などと、いろいろと書いて、奥書には歌が一首ありました。

あなたとの逢瀬はいつどこでともわからない。藻塩草([藻塩を取るために使う海藻。海を掻くことから書くに掛る])のように海に漂うわが身なのだから。せめて書き置いたこの文を形見だと思ってほしい。


続く


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# by santalab | 2013-07-14 08:22 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻三(その72)

広くおもしろき池の、鏡のやうなるに、龍頭、楽人ども船に乗りて遊びたるは、いみじうおもしろし。上達部、殿上人は、居余るまで多かり。右の大臣おはしたり。被け物なむ、数知らず入りたり。中宮よりも、大袿おほうちきかさね、中納言殿より被け物十襲、様々に奉り給へば、宮の御達、蔵人も、皆物見むとて、罷でぬ。中納言、たちまちに御心地も止みて、めでたし。日一日、遊び暮して、事果てて、夜更けて、罷で給ふに、物被け給はぬなし。やむごとなきには御贈物添へて、し給へり。右の大臣、中納言殿に、いと賢き馬二つ、世に名高き箏の琴、奉り給ふ。御前の人々に従ひて物被け給ふ。腰差えさせ給ふ。越前の守、「このことばかりは、我が思ふやうにせよ」とて、当て給ひてければ、いと目安くしたり。二三日ばかり、留め奉り給ひて、渡し奉り給ひける。女君、かくし給ふことを、いとうれしと思ひ聞こえ給ふ。大将、いと甲斐かひありて思す。




広くて趣のある、鏡のような池に、龍頭([竜の頭を前に付けた船])を浮かべ、楽人([雅楽を演奏する者])を船に乗せて遊ぶのは、とても楽しいものでした。上達部([公卿])、殿上人は、船に乗れないほど多く集まりました。右大臣(左大将の父)もやって来ました。被け物([贈り物])を、数知れず持って来ました。中宮(左大将の妹)からも、大袿([ゆき・丈などを大きく仕立てた贈り物用の袿])十襲、中納言殿よりも被け物十襲と、数多く持ち寄ったので、宮(后宮。左大将の妹)の御達([宮中・貴族の家に仕える上級の女房])、蔵人([天皇の警備などを勤めた役人])も、皆見物しようと、やって来ました。右大臣は、たちまちに具合がよくなって、楽しみました。一日、遊んで、宴が終わり、夜が更けると、皆帰って行きましたが、被け物を賜らない者はいませんでした。特に親しい人たちには贈り物を添えて、見送りました。左大将は右大臣と、中納言殿に、とてもりっぱな馬を二匹、名高い箏の琴([箏])を、贈りました。左大将はこの二人の御前に参って被け物を贈りました。左大将は二人の腰をささえさせました。越前守(中納言の長男)は、「今回は、わたしの思うままにせよ」と申して、役を仰せ付かりましたが、無事終えることができてよかったと思いました。左大将は二三日ほど、二人を二三日、殿に留めてから、見送りました。


続く


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# by santalab | 2013-07-14 08:14 | 落窪物語 | Comments(0)


「一遍聖絵」第一〔第一段〕(その4)

さてかの門下に仕へて、一両年研精修学し給ふ。天性聡明にして、幼敏ともがらに過ぎたり。上人器骨をかがみ、意気を察して、「法機の者に侍り、早く浄教の秘蹟ひせきさづけらるべし」とて、十六歳の春、また聖達しようたつ上人の御許に、をくり遣はされ給ひけり。




智真(一遍上人)は華台上人の門下として仕え、一両年研精([細かに調べること])修学([学んで知識を得ること])しました。生まれつき聡明([物事の理解が早く賢いこと])で、幼さないながら理解は仲間たちに勝っていました。華台上人は体をかがめて智真を観察して、意気([意気込み])を感じ取り、「法機(仏法にとって大切なもの)の者である、早く浄教(浄土宗)の秘蹟(戒律)を授けなさいませ」と、智真が十六歳の春に、また聖達上人の許に、送り届けました。


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# by santalab | 2013-07-14 08:09 | 一遍聖絵 | Comments(0)


「義経記」牛若貴船詣の事(その2)

されども牛若かかる所のある由を聞き給ひ、昼は学問をし給ふていにもてなし、夜は日頃一所にてともかくもなりまゐらせんとまうしつる大衆だいしゆにも知らせずして、別当べつたうの御まぼりに参らせたる敷妙しきたへと言ふ腹巻に黄金作こがねづくりの太刀きて、ただ一人貴船きぶね明神みやうじんに参り給ひ、念誦ねんじゆまうさせ給ひけるは、「南無大慈大悲の明神、八幡はちまん大菩薩」とたなごころを合はせて、源氏をまぼらせ給へ。宿願しゆくぐわん誠に成就じやうじゆあらば、玉の御宝殿を造り、千町せんちやう所領しよりやうを寄進し奉らん」と祈誓して、正面しやうめんより未申ひつじさるに向かひて立ち給ふ。四方しはうの草木をば平家の一類と名付け、大木二本ありけるを一本をば清盛と名付け、太刀を抜きて、散々に切り、懐より毬杖ぎつちやうの玉のやうなる物を取り出だし、木の枝にかけて、一つをば重盛しげもりが首と名付け、一つをば清盛が首と懸けられける。かくて暁にもなれば、我が方にかへり、きぬ引きかづきて臥し給ふ。人これを知らず。




けれども牛若はそういう場所があることを聞いて、昼は学問をする振りをし、夜になると日頃は一所で死のうと話し合う大衆([僧])たちにも知らせずに、熊野別当を守るために持って来た敷妙(寝床に敷く布の意)と言う腹巻([簡素な鎧])に黄金作りの太刀([太刀の金具を金銅づくりにしたもの])を身に付け、ただ一人貴船明神に参り、祈り申すには、「南無大慈大悲の貴船明神、八幡大菩薩とともに、源氏をお守りください。宿願が成就しましたならば、玉の宝殿([寝殿])を造り、千町(300万坪)の所領([領地])を寄進いたしましょう」と祈誓して、正面より未申([南西])に向かって立ちました。四方の草木に平家一類([一族])の名を付けて、大木が二本ありましたので一本には清盛(平清盛)と名付け、太刀を抜いて、散々に切り、懐から毬杖の玉([木毬])のような物を取り出して、木の枝にかけて、一つは重盛(平重盛。清盛の嫡男)の首と名付け、一つは清盛の首と付けて括り付けました。こうして夜明け前になると、宿坊に帰り、衣を引きかぶって眠りました。他の者はこれを知りませんでした。


続く


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# by santalab | 2013-07-14 08:04 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」牛若貴船詣の事(その1)

聖門しやうもんに逢ひて給ひて後は、学問の事は跡形なく忘れ果てて、明け暮れ謀反の事をのみぞ思し召しける。謀反起こす程ならば、早業をせでは叶ふまじ。先づ早業を習はんとて、このばう諸人しよじん寄合所よりあひどころなり。如何に叶ひ難きとて、鞍馬の奥に僧正そうじやうが谷と言ふ所あり。昔は如何なる人が崇め奉りけん、貴船きぶねの明神とて霊験殊勝しゆせうに渡らせ給ひければ、智恵ちゑある上人しやうにんも行ひ給ひけり。れいこゑも怠らず。神主もありけるが、御神楽の鼓の音も絶えず、あらたに渡らせ給ひしかども、世すゑにならば、仏の方便も神の験徳けんとくも劣らせ給ひて、人住み荒らし、偏へに天狗の住処すみかとなりて、夕日ゆふひ西にかたぶけば、物の怪おめき叫ぶ。さればまゐりよる人をも取り悩ますあひだ、参篭する人もなかりけり。




聖門坊(鎌田正近まさちか。天狗の面をかぶり鞍馬天狗に化けたのが正近だという説あり)に逢ってから後は、牛若は学問の事はすっかり忘れ果てて、明け暮れ謀反のことばかり思うようになりました。謀反を起こそうとすれば、早業([すばやく巧みな業])を習得しなければ叶わない。先ず早業を習おうと思っていましたが、牛若のいた僧坊は諸人の寄合所([集会所])となっていました。ここでは修行できないと、鞍馬山の奥に僧正が谷(鞍馬山奥の院不動堂と貴船神社との間にある谷)と言う所がありました。昔はどのような者が崇めたのか、貴船明神と申す霊験特にあらたかな御堂がありましたので、智恵([真理を見極める認識力])のある上人([すぐれた僧])たちも修行していました。鈴の音が絶えることはありませんでした。神主もいましたので、御神楽の鼓の音も絶えず、霊験あらたかな場所でしたが、世末になって、仏の方便([教え導きによって、悟りに近づくこと])も神の験徳([加持祈祷(かじきとう)などによって霊験を得ること])も廃れて、人が住み荒らした後は、ただ天狗の住処となって、夕日が西に傾けば、物の怪が喚き叫ぶような場所になっていました。そして参る者を苦しめたので、参篭([祈願のため、神社や寺院などに、ある期間籠もること])する者もいませんでした。


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続く


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# by santalab | 2013-07-13 11:02 | 義経記 | Comments(0)

    

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